ノルウェイの森の、もうちょいと奥まで

読書ノートから、世界の本質をひも解く

ハローダークネス、マイオールドフレンド

『でも人にかまわれないことはむしろありがたかった。僕にはひとりでやらなくてはならないことが山ほどあったからだ
むさぼるように本を読んだ』

 

『たとえささいなことでも、世の中にはまったくの偶然というものはない』

 

『ここはとても暴力的な世界です。誰も暴力から逃れることはできません。そのことはどうかお忘れにならないでください
どんなに気をつけても気をつけすぎるということはありません。猫にとっても人間にとっても』

 

『身体の力を抜き、頭のスイッチを切り、存在を一種の〝通電状態〟にする。意識の周辺の緑を、蝶と同じようにふらふらとさまよう
緑の向こう側には暗い深淵が広がっている。その上を飛ぶ。恐れる必要はない
その底の見えない無明の世界は、その重い沈黙と混沌は、昔からの懐かしい友達であり、自身の一部なのだから。そこには〝すべて〟がある
しかしそこには〝部分〟はない。〝部分〟がないから、何かと何かを入れ替える必要もない。取り外したりつけ加えたりする必要もない
むずかしいことは考えず、〝すべて〟の中に身を浸せばそれでいい』

 

『この世界における一人ひとりの人間存在は厳しく孤独であるけれど、その記憶の元型においては、私たちはひとつにつながっている』

 

漱石の、虞美人草と、坑夫。そして、シューベルトのピアノ・ソナタ(ニ長調ソナタ)は、天国的に冗長。坑夫も、このソナタも、どこかしら不完全なもの
ある種の不完全さを持った作品は、不完全であるが故に人間の心を強く引きつける。少なくともある種の人間の心を
君はその作品を見つける。べつの言い方をすれば、その作品は君を見つける。そこにはその作品にしかできない心の糸の引っ張り方がある
ある種の完全さは、不完全さの限りない集積によってしか具現できない』

 

『交差点では犬はすべての信号を無視した。犬は信号が何を意味するのかをちゃんと承知していた。ただそれを無視しているだけだった
犬はすべてを自分が決定することに馴れているようだった』

 

『すべては想像力の問題なのだ。僕らの責任は想像力の中から始まる。イェーツが書いている
In dreams begin the responsibilities、まさにそのとおり。夢の中から責任は始まる
誰がその夢の本来の持ち主であれ、その夢を君は共有したのだ。だからその夢の中でおこなわれたことに対して君は責任を負わなくてはならない
結局のところその夢は、君の魂の暗い通路を通って忍びこんできたものなのだから』

 

『魂を集め、特別な笛を作る。そしてその笛を吹いて、もっと大きな魂を集める。そしてもっと大きい笛を作る。最後にはおそらく宇宙的に大きな笛ができあがるはずだ
ものごとにはすべからく順序というものがある。順番をきちんと正確に守るというのは、つまりは敬意の発露なんだ。魂を相手にするというのはそういうことだからね
我々はみんな自分の使命に従って生きている。当然のことだ
魂を集めて作った笛の音は、耳には聞こえないものなんだ。もちろん自分には聞こえる。でなきゃ話にもならない
でも普通の人の耳には届かない。その笛の音を聴いていても、聴いているとはわからない
かつて聴いたことがあっても、思い出すことはできない。不思議な笛なんだ』

 

『すべてのものごとにはね、手順というものが必要なんだ。先を見すぎてもいけない。よく前を見ていないと、何かにぶつかることになる
だからね、少しだけ先を見ながら、手順にしたがってきちんとものごとを処理していく。こいつが肝要だ。何ごとによらず』

 

『目を閉じちゃいけない。目を閉じても、ものごとはちっとも良くならない。目を閉じても何かが消えるわけじゃないんだ
それどころか、次に目を開けたときにはものごとはもっと悪くなっている。私たちはそういう世界に住んでいる
しっかりと目を開けるんだ。目を閉じるのは弱虫のやることだ。現実から目をそらすのは卑怯もののやることだ
君が目を閉じ、耳をふさいでいるあいだにも時は刻まれているんだ。コツコツコツと』

 

『君はもう君ではない。それはとても大事なことだよ。人が人でなくなるということはね』

 

『音楽のないことは思ったほど気にはならない。音楽にかわるものはいたるところにあった
息のさえずり、様々な虫の声、小川のせせらぎ、樹木の葉が風に揺れる音、なにものかが小屋の屋根を歩いている音。雨降り
そしてときどき耳に届く、説明のつかない、言葉では表現することもできない音……
地球がこれほど多くの美しく新鮮な自然の音に満ちていることに、これまで気づかずにいた
そんな大事なことをずっと見逃し、聞き逃して生きてきたわけだ』

 

『経験的なことを言うなら、人がなにかを強く求めるとき、それはまずやってこない
人がなにかを懸命に避けようとするとき、それは向こうから自然にやってくる
そのなにかはたぶん求めるときに、求めるかたちではやってこないだろう。もしまだ読んでいなければ、ユーリピデスなりアイスキュロスなりの戯曲を読むべきだ
そこには我々の時代のもつ本質的な問題点がとても鮮明に描かれている。コロス(合唱隊)つきで』

 

『走りまわるイヌ→走狗。この世界には、うようよといる』

 

『愛というのは、世界を再構築することだから、そこではどんなことだって起こりうる』

 

村上春樹海辺のカフカ 上巻

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『詩と象徴性は切り離せない。海賊とラム酒のように
象徴性と意味性はべつのもの。意味や論理といった冗長な手続きをパスして、そこにあるべき正しい言葉を手に入れる
宙を飛んでいる蝶々の羽をやさしくつまんで捕まえるみたいに、夢の中で言葉をとらえる
芸術家とは、冗長性を回避する資格を持つ人々のこと。表層的な〝それらしい〟言葉ではなく、〝切実〟な言葉を』

 

『純粋な現在とは、未来を喰っていく過去の捉えがたい進行である。実を言えば、あらゆる知覚とはすでに記憶なのだ
アンリ・ベルグソン物質と記憶より』

 

『啓示とは日常性の縁を飛び越えること。ただ観察する理性から行為する理性へと飛び移ること。それが大事』

 

『スペイン戦争では、ロルカが死んで、ヘミングウェイが生き残った』

 

『自由なるものの象徴を手にしていることは、自由さそのものを手にしているよりも幸福なことかもしれない。ときには』

 

カフカとは、チェコ語でカラスのこと
求めているのは、勝ったり負けたりする強さではない。外からの力をはねつけるための壁でもない
外からやってくる力を受けて、それに耐えるための強さ。不公平さや不運や悲しみや誤解や無理解、そういうものごとに静かに耐えていくための強さ
それはたぶん、手に入れるのがいちばんむずかしい種類の強さ』

 

『やらなければならないのは、自分の中にある恐怖と怒りを乗り越えていくこと。そこに明るい光を入れ、心の冷えた部分を溶かしていくこと
それがほんとうにタフになるということ』

 

『有効な反証がみつからない仮説は、追求する価値のある仮説だ。どこまでも真剣に追求しなくてはならない』

 

『世界を見る姿勢』

 

『銃剣のことは忘れないようにね。相手を刺したら、それをぎゅっと横にねじるんだ。そしてはらわたを裂く
そうしないと、君が同じことをやられる。それが外の世界の暗い側面だ』

 

村上春樹海辺のカフカ 下巻

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こんにちは

『おもしろき こともなき世を おもしろく すみなすものは 心なりけり』

つまりは、自分次第ってことですね

高杉晋作が詠んだのは有名な『おもしろき こともなき世を おもしろく』までで、下の句は看病をしていた野村望東尼だという話もありますが、どうなんでしょうね

 

guts koporu takkaです

 

 

脳内liveとウォーキング

 

 

さあ、facebookのほうで告知させていただいた通り、今回は〝練習〟とからめてお話をしたいと思います

なんのこっちゃ?という方に説明させていただくと、わたしはいま朝にウォーキングをしていて(好きなようにあまり際限なく食ってたら、そろそろお腹が臨月になってきたので)、数日前から歌の練習も再開しました

 

わたしは中学くらいまでかなりデブっていて、痩せたかったので音楽を聴きながら延々ウォーキングをしていました

楽しかったので、問題なく続けられましたね。雨の日も風の日も、大雪でも大晦日でも

そのときに聴いていたのはGLAYとか、JUDY AND MARYとか。ランダムで再生して、頭のなかでフロントマンに〝成りきって〟いました

ボーカルが女性でも関係なく、女装して、ボイスチェンジャーで声を変えて歌っている、という設定でw

そういう想像の世界で遊んでいたので、全然苦じゃなかったですね

最近ZARDを聴きながら歩いていて、同じようなことして遊んでいたので、また自然と歌いたいなあ、という気持ちになってきたというわけです

 

 

ウォーキングは約20分あたりから脂肪が燃焼すると言われているので、いまはだいたい30分くらい歩いて、練習を15分くらいやって、また歩く、というような感じでやってます

トータルで1時間くらいには抑えたいので、どういう配分にしようかなあというところだったのですが‥‥‥、歩きながら歌えばいいじゃん!という答えに至りましたw

あ、環境がよくわかっていない方もおられるかと思いますが、朝の人がほとんどいない大きな公園でやってます

公道を歌いながら歩いてるわけじゃありませんよw

踊りながら歩くことはありますが‥

 

というわけで歩きながらマル秘ボイトレ動画を聴いておりますと、緊張しないためには〝ひとりでやってるときの感じでやれ〟、と。なんだかんだあまり緊張しいではないんですが、実際にちゃんと考えてみればそれはやはり場所とタイミングによりけり

どこでもまったく緊張感なく歌えるかと言ったらそんなことないわけで

そのへんちゃんと見つめなおさないと進歩はないな、と聴きながら思い、10分前後の動画を聴き終えてさっそく課題曲をセット

 

中央の大きなグラウンド状のエリアに行くと、反対側にいい感じに体操してるおっちゃんが一人いて、まったくの無人じゃないのが丁度いいw

ほんとに誰もいなかったら、緊張なんてしようがないですからね

 

慣れない曲だったので、自信がない分、少しイヤホンに伝わる音源のボリュームを上げる

自分の声は聴きとりづらくなるけど、その分思い切り歌える

上手く歌えなくていい。まずは思い切り歌う

 

この〝上手く〟ってあたりについては最近別に思うところがあったんだけど、それはちょっと話の方向性がずれるので別の機会に

とにかく、思い切り。〝タガ〟を外して

 

毎月会いに行く友人のお墓に〝唱〟という一文字が刻まれているのですが、自分が〝上手くやろう〟としてしまったとき、いつもその文字が頭に浮かびます

実際に上手くなんてできてないんだけど、上手くやろうとしてしまったときに、ね

 

 

精神と時の部屋

 

 

〝ひとりでやっているつもりで〟というところに関しては、最近ドラゴンボールをよく観てるので、精神と時の部屋をイメージしましたねw

 

真っ白でなにもない空間

 

向かい側で体操してるおっちゃんも、もちろんいない

人前に出ると格好つけようとしたり、〝上手くやろうと〟してしまう

いらん力が入るんですね

どんなに緊張していないつもりでも、まったく力が入っていない状態なんてあったかといったら、きっとない

まだまだそのへんは、探求の余地あり、ですね

 

『身体の力を抜き、頭のスイッチを切り、存在を一種の〝通電状態〟にする。意識の周辺の緑を、蝶と同じようにふらふらとさまよう
緑の向こう側には暗い深淵が広がっている。その上を飛ぶ。恐れる必要はない
その底の見えない無明の世界は、その重い沈黙と混沌は、昔からの懐かしい友達であり、自身の一部なのだから。そこには〝すべて〟がある
しかしそこには〝部分〟はない。〝部分〟がないから、何かと何かを入れ替える必要もない。取り外したりつけ加えたりする必要もない
むずかしいことは考えず、〝すべて〟の中に身を浸せばそれでいい』

 

ハローダークネス、マイオールドフレンド

自分の内側の〝友達〟とコネクトしながら、外側とコミュニケーションする

 

そして、

『啓示とは日常性の縁を飛び越えること。ただ観察する理性から行為する理性へと飛び移ること。それが大事』

跳ぶ

跳ぶ

跳ぶ

 

理論を学びながら、しかし始めたら自分の感性に身をまかせる

簡単なようで、簡単じゃない。難しいとは、言わないけど。言ったら遠くなるからね

自然体でいようとすると、いろんなものが邪魔をする

自分の感性のままやろうとするということは、自由であると同時に闘いでもあるんですね

どこまで、自分を解放してやれるのか

 

数年前、自分をあらゆるしがらみから解放しようと試みて、

『交差点では犬はすべての信号を無視した。犬は信号が何を意味するのかをちゃんと承知していた。ただそれを無視しているだけだった
犬はすべてを自分が決定することに馴れているようだった』

というような状態になって失敗しましたけどね

 

紙一重のところにあるとは思うんだけど‥

 

違和感がない限りは、自分のなかで立った(立てた、ではなく)仮説はすべからく試してみる

『有効な反証がみつからない仮説は、追求する価値のある仮説だ。どこまでも真剣に追求しなくてはならない』ということです

 

 

では今回はこのへんで

あ、体重は0.5キロ戻ってました。おかしいな‥

バイバイ!