live houseでのポジショニングについて
『どれだけ遠くまで行っても、自分自身からは逃げられない』
『誰かの視野の中にある自分を、ありありと実感することができた。身体が、肌が、骨がそれを感じとった
しかしそんなことはどうでもいい。それが誰であれ、見たければ見ればいい
神の子どもたちはみな踊るのだ』
『何かをわかっているということと、それを目に見えるかたちに変えていけるということは、また別の話
そのふたつがどちらも同じようにうまくできたら、生きていくのはもっと簡単なんだろうけど』
『これまでとは違う小説を書こう
夜が明けてあたりが明るくなり、その光の中で愛する人々をしっかりと抱きしめることを、誰かが夢見て待ちわびているような、そんな小説を』
ラミパス・ラミパス・ルルルルル
guts koporu takkaです
『どれだけ遠くまで行っても、自分自身からは逃げられない』
う~ん、そうですね。なのでやたらめったらひとり旅とか行っちゃう人の気持ちはよくわからないんですけどね
いや、そうしたいと思ったらそうすりゃいいと思うし、自分もなにかあったら突然、「よし、旅に出よう」とかなるかもしれないですけどねw
でも、人間なのに人間にあきらめを感じてもどうしようもないように、やはり逃げのひとり旅はちょっとだけグッと立ち止まって考え直したほうがいいのかも‥と思いますが
余計なお世話ですね、やめときましょう
『誰かの視野の中にある自分を、ありありと実感することができた。身体が、肌が、骨がそれを感じとった
しかしそんなことはどうでもいい。それが誰であれ、見たければ見ればいい
神の子どもたちはみな踊るのだ』
10代のころはlive houseとか行っても後ろのほうで壁にもたれかかって腕組んで観てるだけだったですね
いまでもたいした変わらんしそれでいいんだけど、当時は最前列でダイブやらモッシュやらしてる連中がちょっとうらやましかったりしたなあ
そのあと札幌の某クラブで働き始めたんだけど、仕事がひと段落して「踊ってきていいよ!」と言われてフロアに出ても、踊れない
自分の殻が、全然破れなかったなあ
そんなとき、ぶらっと行った札幌近郊石狩で行われるビッグ・フェス、『ライジング・サン』
そこでブンブンサテライツのステージを観たとき、一気になにかが弾けた
もうそのステージは圧倒的で、殻がどうとか言ってる場合ではなかった
それこそもう最初から最後まで、頭がおかしくなったんじゃないのかというくらい踊り狂っていたわけです
いまやもう突然公道でも踊りだすようなわたしですが(不審者)、そのくらいからかな、あまり人目を気にせず、好きなように、身体が求めるように踊るようになったのは
まあ、いろいろあってボブ・ディランのliveを観たときに一周して、ああそうか、自由でいいんだ、と気づきましたけども
踊りたきゃ踊ればいいし、壁にもたれかかって聴きたきゃそうすればいい
全然ステージを観てなくたって自由だし、明日の朝ごはんを考えてたっていい
その空間をエンジョイしてるならさ!
という感じですが、人はあなたが思うほどあなたを見ていないってことです
だけど、ガッカリするほどあなたを見ていないわけでもない
最終的には、神さまがちゃんと(ていうかカッチリ?)見ていますよ
ではこのへんで!
バイバイ!