ノルウェイの森の、もうちょいと奥まで

読書ノートから、世界の本質をひも解く

邪悪な私と、邪悪なあなたへの鎮魂歌

こんばんは

 

guts koporu takkaです

 

 

パリで確認されているだけで130人以上の犠牲者が出ている

テロが発生しました

 

それと同時にベイルートでは200人以上の犠牲者が出ています

 

パリは攻撃されましたが、

シリアも攻撃を受けました

 

方法は、本当に空爆しかなかったのでしょうか

 

テレビや新聞、

 

そしてSNSにも

 

踊らされないでください

 

方法はひとつだけ

 

〝自分の頭で考える〟ことです

 

 

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村上龍、半島を出よ 下巻

 

 

狙って選んだわけではありませんが、

そういえばこの作品も、

北朝鮮のテロリストたちが日本に攻めてくるお話ですね

 

 

 

邪悪なものから、逃げてはいけません

 

『狂気は押さえつけるものじゃないが、放し飼いにしてもいけない

無理に抑えつけると狂気は圧縮されていつの日か爆発する』
 
そうですね
 
お話できること
 
まだお話できないことありますが、
 
たしかに押さえつけていると狂気は爆発する、
というのは本当です
 
〝自分の声を聴く〟
 
というのは私もよくこのブログのなかで言うことですが、
もちろんそれは
 
〝世間的に認められそうなこと〟
 
とは限らないわけです
 
とは言え、村上春樹さんの小説の言葉を借りれば、
 
『絶対に表に出してはいけない類のもの』
 
も存在します
 
だからと言って、
 
見ないふりをしたり、
 
そんなもの存在しないがごとく扱っていると、
 
いつかそれは凝縮されて爆発するわけです
 
大きな犯罪レベルとかだとあまりピンとこないと思うので、
わかりやすく言うなら‥
 
遊ぶことを悪だと言わんばかりに我慢して
勉強勉強、仕事仕事とやってきたお父さんが、
年齢高めになってからハメを外し過ぎていろいろと
まずいことになっちゃうようなあれですね
 
 
ならどうすればいいのか
 
世の中に出回っている代替療法みたいなのは、
いっときの誤魔化しにはなっても根本的な解決には
なっていないような気がするので、
ストレートに出してしまうのが一番でしょうね
 
おいおい、お父さんの女遊びレベルならいいけど、
出したらまずいものもあるだろうって?
 
もちろんです
 
だから、〝擬似的に体験する〟のです
 
たとえば、最近よく聞く
(よく聞くというのが既に怖いですが)
 
〝人を殺してみたかった〟
 
というような衝動
 
それはもう、徹底的に殺すしかありませんね
もちろん、心の中で
抑えちゃ、ダメなんですよ
 
中途半端に罪悪感を持って控えめに殺すから、
それはいつまで経っても燃焼されません
 
どんな人間の中にも、
善と悪はセットで納まっています
 
あなたに殺したいほど憎いだれかがいたって、
それはあなただけが持っている
〝邪悪ななにか〟
ではないんです
 
私は詳しく知りませんが、
世界には呪術とかそういうものがあって?
強い念は相手になんらかの影響を‥
とかそんなことを考えている場合ではないです
 
あなたが精一杯自分と向き合って、
なんとかそれを乗り越えたいと誠意を持って、
あなたの中の〝あいつ〟を殺す
 
それで相手は死にませんよ
そして、正しく解消された強い衝動は、
そんなに長い時間あなたを縛りません
 
汚い部分も含めてあなたです
どうか、都合のいいあなただけを受け入れて、
汚れているあなたを見捨てないであげてください
 
少しずつ癒されて、
もっと別ななにかで、
それを転化していけるようになるといいですね
 
しかしそれまでは、
中途半端に自分を誤魔化してはいけません
 
 
ただし、
〝あなたの中〟を飛び出してしまった場合、
ほぼ例外なくあなたには塀のなかの暮らしが待っています
 
警察が優秀だからとかそういうことではありません
 
行いは還ってくる
 
それだけのことなのです
 
ギリギリのところで頑張ってみてください
そして、あなたはどんなときでも世界でひとりきりではないことを、
忘れないでくださいね
 
 
 
 
読み手が欲している情報とは
 
『良い詩を書けるのは、自分の心の闇を見つめることができる人だ。強く美しいだけでは良い詩とは言えない。読む人の側に立った詩でなければ、本当の力はない。読む人の側に立った詩を書く
一方、詩は主体的で自律的なもので、自らの感覚と価値観と方法論で書くものでもある。読む(聴く)ものに妥協しろということではない』
 
これも前項と関係があると言えばあるんですよね
 
自分の都合のいい部分だけ見て、
闇を見つめていない
 
つまり、
〝自分を削っていない〟
 
そんなものに、誰も価値を感じないということです
 
 
私もこのブログを始めて、
〝読み手のことを考えた情報〟
 
というものを意識し過ぎてさまよったことがありますw
 
その後いろんな経緯があって、
 
私は自分の書きたいことを書いていると、
相手が欲しがっている情報になる
 
というようなことを教えていただき、
トンネルを抜けました
もともと〝書くこと〟は大好きですからね
 
ただ、きちんともう少しブログ作成に関しても勉強したいと
思っていますし、
この村上龍さんの言葉を考える限り、
それは私に限ったことでもないような気がしますけどね
 
相手のニーズだけをひたすらマーケティング感覚で調査して、
もうこれ以上ないってくらい薄まった情報なんてそこかしこに
溢れているものです
 
自分に嘘をつかず、
同じようなことで思い悩んでいるかもしれない誰かを思って
書いた文章というのは、
ひたすら自分事であっても届くのではないでしょうか
 
他人事を自分事として捉えられる感性の豊かな人に
 
もしくは、他人事でも貪欲に吸収したいくらい、
困っている誰かに



では、このへんにしておきましょう

以下に読書ノートの残りを貼っておきます
 
 
 
『共有する感覚というのは静かなもの。みんな一緒なんだと思い込むことでも、同じ行動をとることでもない。手をつなぎあうことでもない
それは弱々しく頼りなく曖昧で今にも消えそうな光を、誰かとともに見つめること』
 
 
『 何かを選ぶというのは同時に別の何かを捨てることだが、それがわかっていない人間が大勢いる 』
 
 
『 大事なのは、やらなければならない何かを見つけることだ
何もすることがなければ、腐ったものを見続け、腐った大人たちの言うことを聞き続けることになり、そしていつの日か大人に従い指示通りに生きたところで何の興奮もなく、楽しくもなかったということに気づき、ネットで仲間を募集して自殺するか、ホームレスになるか、あるいはあきらめて大人の奴隷になってこき使われて、それで一生を終わることになる
 
 
ではまた次回!