ノルウェイの森の、もうちょいと奥まで

読書ノートから、世界の本質をひも解く

〝踊らされる〟人から、〝踊る〟人へ

『重くて大きいほどいい音が出るというのは、箱(スピーカー)作りの基本

この場合のいい音というのは、まっすぐで音圧がある音。こめかみがぎりぎりして低音が腰に響くような、踊れる音
気持ち良く踊れる音とオーディオのような〝いい音〟というのは違う。ただ音が良くて大きければいいというものでもない
バンドのような楽器の生音を忠実に再現するPAと、テクノやドラムンベースサウンドシステムは発想からして別物
ステージのPAは基本的には家で聴いているのと同じ、〝点音源〟の発想。バンドが演奏してる音、つまりそういう現実を、右と左のチャンネルでいかにそのままリアルに拡大するか、いかにフラットな音を出すか、それを目的に作られている。そういう音は、聴けるものではあっても、ダンスするための音じゃない。点ではあっても、面の音じゃない
そもそもテクノは作る段階からそういう発想で作られている音楽じゃない。音楽がいくらデジタルになっても、音の出口のスピーカーの仕組みは空気を震わせるアナログ
だからこそ、サウンドシステムはある人にとっては表現のひとつでさえあるのだ』
 
 
清野栄一、地の果てのダンス

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『 だってJ-POPをネット配信で聞きながら、アーティストのアート作品を体験してるなんて誰も思っていないわけでしょ? 』

 

 

『 何の技術もなしに発想一発だけで作品を作るという、デュシャン

 

 

大野左紀子、アーティスト症候群 アートと職人、クリエイターと芸能人

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こんばんは

映画のプロモーションでV6の岡田准一君を見たら、なんか顔が丸くなってたのが気になっています。なに太りでしょうか?

guts koporu takkaです

 

 

 

〝踊れる音〟と、〝踊れる人〟

 

『重くて大きいほどいい音が出るというのは、箱(スピーカー)作りの基本

この場合のいい音というのは、まっすぐで音圧がある音。こめかみがぎりぎりして低音が腰に響くような、踊れる音
気持ち良く踊れる音とオーディオのような〝いい音〟というのは違う。ただ音が良くて大きければいいというものでもない
バンドのような楽器の生音を忠実に再現するPAと、テクノやドラムンベースサウンドシステムは発想からして別物
ステージのPAは基本的には家で聴いているのと同じ、〝点音源〟の発想。バンドが演奏してる音、つまりそういう現実を、右と左のチャンネルでいかにそのままリアルに拡大するか、いかにフラットな音を出すか、それを目的に作られている。そういう音は、聴けるものではあっても、ダンスするための音じゃない。点ではあっても、面の音じゃない
そもそもテクノは作る段階からそういう発想で作られている音楽じゃない。音楽がいくらデジタルになっても、音の出口のスピーカーの仕組みは空気を震わせるアナログ
だからこそ、サウンドシステムはある人にとっては表現のひとつでさえあるのだ』
 
音楽なしでは、わたしの人生はとっくにどこかで終わってたと断言できますが、リスナーとしては〝音質〟というものにほとんど興味がありませんでした
というのも、わたしをこれまで何度も救ってくれたのは、〝音質〟ではなくその音楽が持っている〝フィーリング〟だったからです
 
「こんな聴いたこともないカッコいい音楽があるのか」とか、
 
「これを聴けただけで生きててよかった‥」とか、
 
その他わざわざ言葉にしなくても、その音がその〝カタチ〟をとっているだけでどうしようもなく高揚し、涙が溢れてくる、顔がにやけてしょうがない、というようなことが数え切れないくらいあったのです
 
そりゃあ、選挙カーみたいな音ワレワレな感じとかはイヤですけど、それが聞けるものであればなんでもよかったわけです
実際、音楽にほとんど興味がない人に比べれば上等なサウンドシステムを手に入れているいまも、ほとんど日常的にはパソコンで聴いてますからね
 
ただ、気が向いたら〝音の質の変化〟を実際に検証して楽しんでみたいなあ、とももちろん思っていますよ
なにで聴いても同じだって思ってるわけではないですからね
ただ、優先順位はかなり低いですけど
 
 
そして、〝踊れる音〟に関してですが、たしかに〝いい音〟とイコールではないです
そんなことはわざわざわたしが改めて語ることでもありませんが、〝フロアライクな音(クラブや、イベント空間向きな音)〟と〝ルームリスニング向けな音〟は違いますよね
 
音源を創ってる側も、それは意識のなかにあることだと思います
 
 
でも‥
個人的に言えば、それも違うような気がするんですけどね
わたしの過去の友人で、かっこいいjazzをかけるdjがいましたが、彼のかける音は決して〝ciub jazz〟と一般的に呼ばれるようなものではありませんでした
でも、踊れるんですよ
 
これが第一段階
その人は〝躍らせる〟ということを意識していましたから、〝かけ手の意識〟によっては、家で聴くような音源でも踊らせることができるということです
 
そして第二段階
当たり前だよ!って思うかもしれませんが、クラシックのコンサートでダンスしてる人は普通いないですよね?
それは〝場所〟の問題もあるし、わたしも別にクラシックのホールに行ってわざわざ踊ろうとは思いません。顰蹙を買うだけですw
 
ただ、クラシックだから踊れないってことではないですよ
クラシックで踊ったことはありませんが、最近実感として、踊れない音ってのはないな、と感じています
この第二段階に関しては、かけ手ではなく〝受け手〟、〝聴き手〟に比重があるんですね
それは別に無理やりなんでも踊ってやろうってことではなくて、〝なんでも踊れるような自分で在る〟ってことですね
これは別になったからレベルが高いとかそういうことではなくて(そんな発想はつまんないから捨てちゃってください)、ただ音楽や、むしろ〝日常を能動的に〟、思い切り楽しむことによって自然にそうなっていくんだと思いますよ
 
 
いまはどうか知りませんが、タモリさんが嫌いなことで有名な〝ミュージカル〟がありますね?w
タモさんが嫌いなのは、人生の場面場面でなんで踊り出すんだよ!ってことだと思うんですけど、それってそんなに不自然なことでもない気がするんですよね
もちろん、タモさんが急に踊り出したらびっくりしちゃいますけど、だからこそふだん〝どんな自分で在るか〟ってことが重要なわけです
 
タモさんにしたって、急に踊り出しはしないけど、急にコンドルやイグアナはやるでしょ?w
仕事だからとか、そんなつまんない答えはやめましょう
要は、自分にどんなフィルターをかけているか、自分をどう認識しているかの違いでしかないんです
そして、それは自由に変えられるんです
 
別に無理やり踊り出せって話ではないですけどw、自分はそういうキャラじゃないから、みたいなことで自分を定義付けてしまうのはもったいないんじゃないかと思います
 
〝魂が乗り移る〟という言葉があるように、人は自分の周囲だったりいろんなものに影響を受けて、自分を形作っています
信念や信仰が、その人の人格や人生そのものをつくっているわけです
ならばそれを確信犯的に自分でコントロールしていったほうが楽しいですよね
 
なりたいものを、主体的に選んでいく
受動的に洗脳されるんじゃなく、自分から洗脳されにいくんですよ
自分がなりたいものを、すでに体現している人がいいですね
もちろん100%じゃなくて95%とかでいいんです
残りの5%が、あなただけのオリジナルになっていくわけですから
 
 
 
 
勝手に雲の上に祭り上げられる人も悲惨なんですよ?
 
『 だってJ-POPをネット配信で聞きながら、アーティストのアート作品を体験してるなんて誰も思っていないわけでしょ? 』
 
さて、もう一息です
これは、読んだら笑っちゃいましたねw
そんなこともねえよ、とも思いましたが、たしかにそうだって感じでもありますよね
 
でも、これをいい感じに解釈していくなら、アーティストも人間だってことですよね
影響を受ければ受けるほど勝手にその人を雲の上の存在にしていきがちですけど、それって結局後から邪魔になってくるんです
憧れるような、自分にとって〝成功している人間〟と、壁を作ってしまうことになるから
 
無駄ですよ、無駄
 
あなたの大好きなアーティストも、ウンコもすればエッチなビデオも見ますから
同じ人間です
その上で、そこに行くために彼は(彼女は)何をしたんだろう?
 
何を楽しんだんだろう?
って考えたほうが意味のない遠回りをしなくて済むと思いますよ
 
あとは、もちろん自分を過剰に飾らないことですね
アーティストぶっちゃうと、どんどん世界が狭くなるだけですから
どんどんおもしろくなくなるだけですよ!
 
 
では今回はこのへんで
バイバイ!