ノルウェイの森の、もうちょいと奥まで

読書ノートから、世界の本質をひも解く

ワクチン、予防接種に関する学習レポート その3

連続投稿です

 

guts koporu takkaです

 

さて前回の投稿でかなり偏った予防接種知識ですが、

揺り戻しというか、

反対意見を取り入れたくなりました

 

どこまでも偏ることはできない性格なので、

右翼・左翼活動には向いていないですねw

 

 

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岩田健太郎、予防接種は「効く」のか? ワクチン嫌いを考える

 

 

 

本意ではないとは言え、

ここまで知識が偏った中でこの本を素直に読むことができたのは、

オビで推薦文を書かれている内田樹さんが、

僕に多大な影響を与えた思想家だからです

 

前回の最後に載せた本の内容まで鵜呑みにはしていないとは言え、

だいぶ

 

シーソーの片方に肥満児を乗せたような状態

 

に知識が偏っているので、

バランスを回復させていただきましょう

 

 

『医師というのは、ろくに知りもしない薬を処方し、薬よりもいっそうよく知らない病気の治療にあたり、

患者である人間については何も知らない連中である
 
こういう引用を持ってくるあたりが、
〝ワクチン推進派に偏っていない〟ことを暗に感じさせてくれるので、
そういう意味でも安心感を持って読み進めることができました
 
 
 
『「今の常識」を捨てる覚悟を持つ
 
「科学的に証明されている」という安易な言葉にも要注意です
科学が何かを「証明する」ためには、たくさんの条件をクリアーしなければなりません
科学的営為が何かを「示唆」したり、「主張」させたり、「問題提起」を行うことはしばしばありますが、
真実を証明するのは稀有なことです
また、実際証明されたと感じられても、後々になって「誤謬」と分かってしまうこともまれではありません
(中略)
科学的に証明したと思っても、後の研究でひっくり返されるのは、世の常です
(中略)
どんなにたくさんのヒューマンなエピソードがあっても、それはその人の正しさを担保したりはしないのです
(中略)
科学者はいつでも、「現在の常識」を捨てる覚悟を持っていなければいけません
そうしなければ医学の進歩はあり得ないからです
しかし、不思議なことに、本来もっとも柔軟な頭脳と臨機応変な態度を必要とする医学者ほど、
保守的で頑迷で、狭量だったりします
大学の医者なんて特にそうです
ほんと、不思議だなあ
 
僕らはですから、「今の常識」をいつでも捨てることができる、柔軟な頭と勇気を持つ必要があります
どんな見解も頭から「正しい」と鵜呑みにしない、健全な猜疑心も重要です』
 
 
僕がこの本を読んで持った感想は、
ワクチンや予防接種が云々というよりも、
 
おもしろい、ワクワクする考え方をする人だなあということです
論理的で、なおかつ肩の力が抜けている
そんな人が僕は好きです
 
 
 
『要するにワクチンとはシートベルトのようなものです
シートベルトをしたからといって交通事故に遭わないとか、交通事故で死なないことを保証するものではありません
シートベルトをちゃんとしていても交通事故で亡くなる不幸な人はいるでしょう
しかし、そのような例でもって「シートベルトなんていらないよ」と断じてはいけないのです
「俺は今までワクチンなんか打ったことないけど、インフルエンザになったことなんかないよ
だから大丈夫だよ」というのは、
「俺は今までシートベルトもせずに運転してきたけど一度も事故に遭っていない
だからシートベルトなんていらない」というのと全く同じ論理構造をしています
 
個人の体験(過去)は未来の何ものも保証しないのですが、僕らはしばしば過去の体験を未来への担保にしてしまいます』
 
 
ワクチンをシートベルトに例えちゃったのは少し強引だなあ、
と思います
 
それは、
ワクチンというものがシートベルトと同じ働きをするもののような言い方ですが、
そんなことないだろうって思いますからね
その前提がないならこの例えは役に立たないと思います
 
しかし、ここで強調したかったのはそこというより、
最後の
個人の体験(過去)は未来の何ものも保証しないのですが、僕らはしばしば過去の体験を未来への担保にしてしまいます
 
というセンテンスです
 
まったくその通りですよね
冷静な人だなあ、と思います
これをきちんと分けて考えられている人は、
実際あまりいないのではないかなあ
 
 
 
ダブルバインドな予防接種
ここにAという選択肢とBという選択肢の二つがあります
あなたがAを選択すると「なんでそんなことするんだ」と非難轟々
ではと思ってBを選ぶと、同じ人たちからやはり「なんでそんなことを」と怒鳴られる
あなたは困ってしまいます
これはグレゴリー・ベイトソンが「ダブルバインド」と名付けた状況です
こんなところに陥ってしまうと、にっちもさっちもいかないですね
 
予防接種をめぐる問題は、一見するとこの「ダブルバインド」な状況であるかのように思えることがあります
ワクチンを打つと副作用が起きる
ワクチンを打たないと病気になってしまう
どっちに転んでも問題が起きる
特に予防接種に関わっているキープレイヤーたちは、このダブルバインド状態に陥って頭を抱えてしまっているようです
そりゃ、悩むわな
(中略)
「批判されたくない」が唯一の行動原理である厚労省の官僚にとって、ダブルバインド状態は一番困った問題です
なにしろどっちに転んでも叩かれることが、ダブルバインドなのだから
 
このようなダブルバインド状態を回避する一番簡単な方法は、「見なかったことにする」ことです
どちらかを、見ない
例えば副作用のことは「見なかったことにする」
あるいはワクチンで予防できる病気については「見なかったことにする」
こうすれば、(少なくとも表面上は)ダブルバインド状態は存在しないことになります
「なにがなんでもワクチン推進派」が前者で、
「ワクチンと名のつくものはすべて悪」、というワクチン反対派(あるいは「ワクチン嫌い」)が後者になります
 
さて、事物のある一面だけ見て、他を一切無視するというのは小児の態度です
およそ、物事の一面だけにしか価値を見いださず、自分にとって都合の悪い側面を一切無視してしまう
このような一意的な態度をとる子どもっぽい人たちを、僕らはファンダメンタリスト(原理主義者)と呼びます
成熟した大人であれば、たとえ自分に都合が悪い事実であっても、それを正視し、物事の両面を見なくてはいけません
 
ダブルバインド状態とはつまり、成熟した大人であれば避けることのできない宿痾(しゅくあ)のようなものです
成熟した大人が扱う物事のほとんどは、「あちらを立てればこちらが立たない」微妙な難しい問題です
煮え切らない、すっきりしない、一意的に解決策のない悩ましい状態です
その煮え切らない問題を、「煮え切らない問題」としてまるごとそのまま受け入れ、受け止め、
そして落としどころを探しに行くのが、成熟した大人の態度です
 
成熟とはあいまいさと共に生きていく能力のことだ
 
……といったのはフロイトでした』
 
 
これは、まさに前記事で書いた
 
 
という思い込みを回避するために有効な態度だと思います
 
ダブルバインドって言葉も初めて聞きましたが、
おもしろい人ですね
 
 
 
『マスコミのバッシングには、マスコミ・パッシングを
 
最近思うのですが、僕らはそろそろマスメディアを黙殺する、
「マスコミ・パッシング」という戦略を積極的に採用する時にきていると思います
 
僕は今、新聞を取っていません。出張に行った時にホテルに届く朝刊くらいしか読みません
テレビもほとんど見ません。以前はスポーツ中継と映画、そしてドキュメンタリーくらいは見ていましたが、
映画もたまーに映画館に行くか、レンタルDVD以外は見なくなり(最近はそれもなかなか見る時間がありませんが)、
ドキュメンタリーも、演出たっぷりの一種の「フィクション」だと認識するようになってから、ほとんど見なくなりました
インターネットの普及で、テレビとか新聞とかいうメディアの必要性が薄れてしまったから、という側面もあると思います
けれど、もっと大きな理由は、「マスメディアからは欲しい情報が得られない」からです
日本のテレビや新聞では、謎が解けるよりも謎が増えてしまうことが多いのです
いつも同じ語り口、いつも同じ論調、いつも同じ仮想敵とそのバッシング、ということで展開はワンパターンなのですね
 
今朝(2010年9月4日)、たまたまつけたテレビで偶然、帝京大学病院でアシネトバクター感染症が多発し、
死亡者が出たことが報じられていました
しかし、僕はそのニュースを見ていて、何のことだかまったく理解できませんでした
 
アシネトバクターは院内の感染症を起こすことで有名で、そのこと自体は珍しいことではありません
病院に過失があったのか、あるいはその他の原因があったのか、ニュースはそのあたりについては一切語りません
そのテレビのニュースは「なんとなくある大学病院が悪いことをしている」ような印象を、
映像からメッセージとして伝えていますが、具体的に何がどう問題だったのかはまったく理解できないのです
僕のような感染症のプロが見てもさっぱりなのですから、一般の方には全然理解できなかったのではないでしょうか
結局そのニュースが伝えたかったことは、
「大学病院がひどいことをやっている」っぽいメッセージを流しただけなのでした
 
(中略)
2009年にインフルエンザのパンデミックが起きた時、関係者が一様に言っていたのは
「とにかく大変だったのはマスコミ対応だった」でした
先日インフルエンザに関するリスクコミュニケーション・ワークショップをやったのですが、
多くの方が「今後どのようにしてマスコミに対応していくかが課題だ」とおっしゃっていました
しかし、パネリストの内田樹さんはこれに対して、
「メディアはシャットアウトした方がよいと思いますよ」とおっしゃっていました
僕もそう思っていたので、我が意を得たり、でした
 
なぜ、みんな一所懸命メディアの言いなりになり、彼らの要求に応じ、そして親切丁寧に対応し、
記者会見に応え、お辞儀をしなければならないのでしょう
だったら、「今忙しいから、取材には応じられません」と一言言えばよいだけなのではないでしょうか
そういうことをすると、「情報を隠蔽している」とか批判されますが、じゃあ、メディアに情報を開陳したら
きちんとそれを報道してくれるかというと、そんな保証はありません
どうせ記者会見をやったって、正確な情報は流してはくれません
メディアに情報を開陳しなければならない義務など、実はどこにもないのです
むしろ、これだけ情報開示のツールが増えたのですから、なにか開示しなければいけない情報は、
自分のホームページやツイッターか、そういう媒介を介して公開すればよいではないですか
 
今、芸能人などは、結婚の情報などを記者会見ではなくブログに公開することがありますよね
そしてメディアも「ブログによると」と、これを情報のソースに芸能ニュースを報じています
ブログに公開すれば、メディアがいい加減なことを書いたとしても、すぐに元のブログというソースを担保にして
真偽を確認できます
一種のトライアンギュレーション(三角測量的検定)ができます
 
この方法を使えば、いい加減なことを書くメディアもだんだん淘汰されていくのではないでしょうか
まあ、メディアに批判されても、テレビも新聞もスルーして見なければ、
全然気にならず問題にもならない、という考え方もありますが
 
僕は2ちゃんねるとか掲示板の類は見ないので、自分のことがたとえそこでボコボコに言われていても
全然気になりません(というか気がつきません)
ああ、それで思い出しましたが、僕は匿名コメントというのが個人的に嫌いです
それは感情的な嫌悪なので、別に匿名コメントをされる方そのものを否定したりはしないのですが
ですから、僕のブログやアマゾンの書評で、きついコメントをされても全然気になりません
自分の名前を出すリスクを冒さない暴言の類は、トイレの落書きとほとんど同じだと僕は思っているので、
微笑みをたたえて黙殺するだけなのです
 
話を戻します
厚労省の行動規範は「批判されないこと」である、その批判者はメディアです
僕は彼ら(厚労省の役人)によく言います
官僚はメディががいい加減なことを書くといつも不満を言い、軽蔑するくせに、
メディアに批判されることを極度に恐れるのはおかしいのではないか、と
そんなに軽蔑の対象にしているのなら、軽くスルーしちゃえばよいのに
別に選挙に出るわけじゃないんだから
(選挙に出る政治家の方はメディアに露出しないと当選しづらいようですね)
 
メディア・パッシングをすれば、「批判をされないための」という行動規範がなくなります
情報公開は自らのツールを使って行います
そうしたら、今度こそ「本当の行動規範は何か」というより深い命題を検討できるはずなのです
いい考えだと思うけどなあ』
 
 
このへんも僕の最近の価値観と方向性が一緒なので、
おおいに共感した部分です
 
というより、
少し先を行った考えですね
参考になります
 
一般的に何か不祥事があれば記者会見をし、
国民に向けて謝罪するというような形式になっていますが、
 
別にマスコミの言いなりにならなければならないなんて決まりは
どこにもないわけです
また、それは健全な状態でもないと思いますね
 
言い方は悪いですが、
マスコミが調子に乗ってしまうだけですw
 
ミスをしたらごめんなさいと謝るのは大切ですが、
もう少し毅然とした態度を取れるようにならないと、
世にも恐ろしい
 
失敗が許されない社会
 
が形成されていってしまうでしょう
(まあ、すでにそんなところはありますが)
 
 
 
『本当にダブルバインドなのか
 
ここで、少し視点を転じてみましょう
そもそも、本当に予防接種とは「あちらを立てればこちらが立たない」ダブルバインドな状態なのでしょうか
 
すでに立てた前提を覆す
 
いきなり「ちゃぶ台ひっくり返し」ですみません
でも、物事を考える基本は「前提を疑う」ところにあるのです
科学的にものを考える時は、常に健全たる猜疑心を持ち、「前提」と「常識」を疑い続けなければなりません
(中略)
要するにここで申し上げたいことは、
予防接種を打っても打たなくても、多くの方には何も起きない、ということです
 
これが予防接種の本質です
 
ごく少数の人が予防接種の恩恵を受けて病気を回避でき、
ごく少数の人が予防接種を受けなかったがゆえに病気になって苦しみます
 
そして、簡単に言うと、予防接種を行う価値のあるワクチンというのは、
この「予防接種をせずに病気に苦しむ人」と「予防接種を打って副作用で苦しむ人」とを比較し、
前者が後者よりも大きい場合
(単純に数的な問題ではないので、ここでの「大きい」はいろいろなことを意味しています)をいうのです
ややこしかったですか?
でも、がんばってこの部分さえ理解しておけば、予防接種の本質は理解できるのです
 
さて、というわけで、マジョリティ(過半数の人たち)にとっては、
予防接種は打っても打たなくてもネガティブな存在ではありません
つまり、ダブルバインドでなんでもないのです
(相対的には)少数の方がワクチンの副作用に苦しみ、
そして少数の方がワクチンで予防できる(はずであった)病気に苦しむのです
 
もちろん、マイノリティ(少数派)であるから、無視してもかまわないということはありません
ただ、僕らがワクチンについて語るとき、マジョリティ(多数派)たる「何も起きなかった人たち」が
あたかも存在しなかったかのように、マイノリティを過度に強調することがあります
これは僕たちがまれな事象をことさらに大きく扱い、よくある事象
定期的な事象を無視するというへんてこなクセをもっているためです
 
 
 
一般論ですが、
「あれか、これか」という二者択一を迫る命題というのは、あまり成熟した議論を生みません
前にも述べましたが、こういうのは「白髪の小児」の好むところです
僕らはより成熟した命題、「あれも、これも」とか「どの条件なら、あれか」という考え方を、
ここではするべきなのです
病院で個別に接種を受けるもよし、集団で学校や保険所で接種を受けるのもよし
いろいろな選択肢があることが大切なのです』
 
 
いろんな選択肢があることが重要
 
ここに尽きると思いますね
 
guts koporu takkaという名前の、
 
koporuとは、アイヌの言葉〝コポライ(混ざる)〟を、
 
より能動的に〝混ぜる〟という意味でつくった言葉です
 
ワクチンに関しては必要のない限り打たない方針ですが、
 
ワクチン自体が悪だとか、
西洋医学がすべて悪だとか、
そんなことはありえないわけです
 
いろんな選択肢があって、それを混ぜ合わせる
良いとこ取りをする態度が重要なんじゃないかなあ、と思います
 
要は、良い意味での
 
結果良ければすべて良しですね
 
ただ、
ここでもうひとつ重要なことがあります
 
『ゼロリスクという幻想
 
GHQ主導で作られた予防接種法ですが、突貫工事で作られたこともあって、
たくさんの問題点がありました
その一つに、「ゼロリスク」という前提があります
 
当時、義務接種であった予防接種ですが、なんと補償制度が存在しなかったのです
つまり、強制的にワクチンを接種せよ、と国が命じておきながら、何か副作用が起きたときには
補償はありませんよ、という、今から考えるとかなり乱暴なシステムでした
副作用が起きても補償がない……なんていう話は納得がいきませんよね
この問題を払拭するために考え出された苦肉の策が、
「副作用なんて起こりえない」というゼロリスク神話でした
 
万が一有害事象が発生しても、
「これはワクチンの副作用ではありません。あなたが特異体質だったから仕方なかったんです」
という説明がなされました
これは、「この車を運転するのは安全なはずである」という「理念」を援用して、
だからシートベルトもエアバッグもいらない、という発想ですよね
 
リスクがゼロでなければいけない、リスクはゼロに違いない、リスクなんて考えなくてもよい……
という思考停止状態です
(中略)
「ゼロリスク症候群」は、国・政府だけの病ではありません
ワクチンを受ける側の国民も、
「国がやっている予防接種事業なのだから絶対に副作用があってはいけない」という
「ゼロリスク症候群」にかかってしまいました
 
ワクチンというはある物質を(多くの場合)注射で体に打ち込む、極めて不自然な行為です
アレルギー反応を初めとするあれたこれやの副作用は、わずかながら必ず存在します
しかし、その副作用が「あたかもないかのように」振舞っていた国と国民の態度が、
戦後の日本の医療のあり方に暗い影をなげかけてきました
 
ゼロリスクというのはありえない幻想に過ぎません
したがって、この理論はいずれ破綻します
ワクチンのみならず、医療行為は必ずリスクを伴います
薬を飲むのも、心臓カテーテルのような検査を受けるのも、手術を受けるのも、
そしてお産も、必ずリスクがつきまといます
 
外科手術というのは人間の体を刃物で切り刻む行為です。医療現場でなければ犯罪行為ですよ
リスクは当然、ありますよね
それが犯罪でないのはどうしてかというと、人間の体を刃物で切り刻んでも、
なお得られる患者さんへの大きな価値があり、それが手術というリスクを大きく凌駕するような利益だからです
 
医療の本質は、この「リスクを超える利益を得るためのトレードオフ」の行為である、という点にあります
 
この本質を見失ってしまうと、
「ワクチンの副作用ではありません、あなたの特異体質なんです」という詭弁が生じます
「私は責任とれませんから、あなたの自己責任でやってください。ここに同意書がありますから、サインをどうぞ」
という丸投げが生じます
「副作用なんて知りませんよ」という隠蔽が生じます
「お前の責任だ」という「糾弾」が生じます
詭弁、丸投げ、隠蔽、糾弾のいずれも、日本という国の政府と国民が共有してきた
「ゼロリスク症候群」の典型的な特徴なのです』
 
 
 
そう、どんなものをどのように選んだとしても、
 
リスクがない
 
なんて状態はありえないし、
もしそんなことを主張するのであれば必ず違和感が生じます
 
前回の記事で紹介したワクチン推進派の小児科のお医者さんたちが
書いた本に違和感があったのもそこですね
 
まるでワクチンにまったくリスクがないかのように書いている
正確には副作用のことも書いてはいますが、
それをかき消すかのごとくメリットを強調しています
それではいけないなあ、と思いますよ
 
そういうことするから、
お金のことだけを考えている、なんて言われちゃうわけですね
 
ワクチンはバイオテロだなんて、
とりあえずはトンデモ論にしか思えないことでも、
このように
火のないところに煙は立たない
という状況があるわけです
 
それはワクチン反対派にも言えることですけどね
自分の主張のために、
 
都合の悪い部分を隠す
 
ような理屈を展開しても、
最終的に不都合を被るのは自分だってことを忘れてはいけません
 
 
 
『自然でないワクチンは体によくない?
世の中には、自然なものはよいもので、人工的なものはよくないものである、
という素朴な信念をお持ちの方がいます
例えば、天然の調味料はよくて、人工調味料はよくない
無農薬野菜はよくて、農薬を使うのはよくない
病気にかかるのはよくて、ワクチンはよくない……
このような素朴な信念は、ではどのような根拠からきているかというと、
それは意外に大したものではなくて、どちらかというと感傷的な、感覚的な根拠からきていることが多いのです
 
『今時は発酵よりも化学を食べる事が多いんだから、語る時だけ食品添加物をあしざまに言うのはどうかと思うね
食品添加物は我々の生活にスピードを与え手間を省く
前にも言ったが選択することが大事なんだヨ
どちらか一方を礼賛するなんて宗教でもあるまいし
 
だからこそ消費者は知ることが大事なんだよ
無知なままでは踊らされてつかまされても気付かないままだ
少なくとも君ら農大生は農薬は悪でない事を知っているね
農薬は使う人間の側に問題がある事がほとんどだ
 
僕はまんが『もやしもん』の大ファンですが、いいこと言うなあ
 
ワクチンというのは自然物である病原体を加工して(多くの場合)注射し、僕たちの免疫能力を引き上げるという物質です
ワクチンの大元は自然物ですし、引き上げられた免疫力も僕ら自身の免疫力で、別に人工的なものではありません
どこまで加工したら、自然物が人工物と呼べられるようになるのかなんて、
あくまでも恣意的な規定に過ぎないのです
 
例えば、肉に火を通したらこれは人工物でしょうか
野菜に塩をかけたらこれは人工物でしょうか
どこからが自然でどこからが人口か
この「自然物か人工物か」という議論はナイーブな、意味の小さな議論です
また、仮に自然か人工かの分別が可能だったとしても、何の吟味もなしに
「人口物だから悪いもの」と談じるのもまたナイーブな議論です
 
『自然なものが良いとはかぎらず、自然でないから悪いともいえない
自然界には、ヒ素コブラの毒、放射性元素地震、エボラ・ウイルスなどが存在しているが、
ワクチン、眼鏡、人工関節などはすべて人間が作ったものだ
サイモン・シン、エツァート・エルンスト『代替医療のトリック』 青木薫訳 新潮社 2010年)』』
 
 
 
という引用を持って、
いったんワクチン・予防接種のレポートを終えようと思います
 
これに関しては、マンガ範馬刃牙のお父さん、
範馬勇次郎がこんなこと言っています
 
 
『防腐剤…着色料…保存料…、様々な化学物質。身体によかろうハズもない
だからとて健康にいいものだけを採る、これも健全とは言い難い
毒も喰らう、栄養も喰らう。両方を美味いと感じ、血肉に変える度量こそが、食には肝要だ
 
 
 
さすが勇次郎ですねw
 
何事も偏らず、〝良い面を見極める〟態度が大切だと思います
 
だって、毒蛇に噛まれたら血清を打つでしょう?
もしかしたら自然治癒させる方法もあるのかもしれないけど、
ハブとかそんなのに噛まれたら、僕だったら血清を打つなあ
 
ナチュラル(自然)な姿勢は尊いけども、
ケミカル(化学)を否定するのはどうだろう?って思いますよ
 
 
 
この岩田健太郎さんの本に関しては、
 
子宮頸がんワクチンも同列に扱っていることと、
 
好き嫌いで物事を判断するなって頑なに言ってるように僕には思えたところで
少し引っ掛かりはありましたが(本当にそうかな?と思います)、
 
概ね素晴らしい見識をお持ちの方だと思います
 
 
 
ではこんなところで、
ワクチン・予防接種に関するレポートを結びたいと思います
 
このblogは、
新しいblogへの移行のお知らせを最後の投稿にしたいと思っていますので、
それまでしばしお待ちください
 
ではまた次回!