ノルウェイの森の、もうちょいと奥まで

読書ノートから、世界の本質をひも解く

blogを移設しました!

恐らく定期的に見に来てくださった方もいるのではないでしょうか

 

本当に長くお待たせいたしましたが、新しいblogを開設いたしました

 

タイトルすら決まっていませんw

(リンク先のguts koporu takka's diaryというのは、

勝手についてる初期タイトルです)

 

 

では、こちらが新blog入り口でございます

guts-koporu-takka.hatenablog.com

 

 

これまでこの旧blogをご愛読くださり、

本当にありがとうございました!!

 

新blogでも特に俺自身は変わりませんので、

よろしくお願いいたします!

ワクチン、予防接種に関する学習レポート その3

連続投稿です

 

guts koporu takkaです

 

さて前回の投稿でかなり偏った予防接種知識ですが、

揺り戻しというか、

反対意見を取り入れたくなりました

 

どこまでも偏ることはできない性格なので、

右翼・左翼活動には向いていないですねw

 

 

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岩田健太郎、予防接種は「効く」のか? ワクチン嫌いを考える

 

 

 

本意ではないとは言え、

ここまで知識が偏った中でこの本を素直に読むことができたのは、

オビで推薦文を書かれている内田樹さんが、

僕に多大な影響を与えた思想家だからです

 

前回の最後に載せた本の内容まで鵜呑みにはしていないとは言え、

だいぶ

 

シーソーの片方に肥満児を乗せたような状態

 

に知識が偏っているので、

バランスを回復させていただきましょう

 

 

『医師というのは、ろくに知りもしない薬を処方し、薬よりもいっそうよく知らない病気の治療にあたり、

患者である人間については何も知らない連中である
 
こういう引用を持ってくるあたりが、
〝ワクチン推進派に偏っていない〟ことを暗に感じさせてくれるので、
そういう意味でも安心感を持って読み進めることができました
 
 
 
『「今の常識」を捨てる覚悟を持つ
 
「科学的に証明されている」という安易な言葉にも要注意です
科学が何かを「証明する」ためには、たくさんの条件をクリアーしなければなりません
科学的営為が何かを「示唆」したり、「主張」させたり、「問題提起」を行うことはしばしばありますが、
真実を証明するのは稀有なことです
また、実際証明されたと感じられても、後々になって「誤謬」と分かってしまうこともまれではありません
(中略)
科学的に証明したと思っても、後の研究でひっくり返されるのは、世の常です
(中略)
どんなにたくさんのヒューマンなエピソードがあっても、それはその人の正しさを担保したりはしないのです
(中略)
科学者はいつでも、「現在の常識」を捨てる覚悟を持っていなければいけません
そうしなければ医学の進歩はあり得ないからです
しかし、不思議なことに、本来もっとも柔軟な頭脳と臨機応変な態度を必要とする医学者ほど、
保守的で頑迷で、狭量だったりします
大学の医者なんて特にそうです
ほんと、不思議だなあ
 
僕らはですから、「今の常識」をいつでも捨てることができる、柔軟な頭と勇気を持つ必要があります
どんな見解も頭から「正しい」と鵜呑みにしない、健全な猜疑心も重要です』
 
 
僕がこの本を読んで持った感想は、
ワクチンや予防接種が云々というよりも、
 
おもしろい、ワクワクする考え方をする人だなあということです
論理的で、なおかつ肩の力が抜けている
そんな人が僕は好きです
 
 
 
『要するにワクチンとはシートベルトのようなものです
シートベルトをしたからといって交通事故に遭わないとか、交通事故で死なないことを保証するものではありません
シートベルトをちゃんとしていても交通事故で亡くなる不幸な人はいるでしょう
しかし、そのような例でもって「シートベルトなんていらないよ」と断じてはいけないのです
「俺は今までワクチンなんか打ったことないけど、インフルエンザになったことなんかないよ
だから大丈夫だよ」というのは、
「俺は今までシートベルトもせずに運転してきたけど一度も事故に遭っていない
だからシートベルトなんていらない」というのと全く同じ論理構造をしています
 
個人の体験(過去)は未来の何ものも保証しないのですが、僕らはしばしば過去の体験を未来への担保にしてしまいます』
 
 
ワクチンをシートベルトに例えちゃったのは少し強引だなあ、
と思います
 
それは、
ワクチンというものがシートベルトと同じ働きをするもののような言い方ですが、
そんなことないだろうって思いますからね
その前提がないならこの例えは役に立たないと思います
 
しかし、ここで強調したかったのはそこというより、
最後の
個人の体験(過去)は未来の何ものも保証しないのですが、僕らはしばしば過去の体験を未来への担保にしてしまいます
 
というセンテンスです
 
まったくその通りですよね
冷静な人だなあ、と思います
これをきちんと分けて考えられている人は、
実際あまりいないのではないかなあ
 
 
 
ダブルバインドな予防接種
ここにAという選択肢とBという選択肢の二つがあります
あなたがAを選択すると「なんでそんなことするんだ」と非難轟々
ではと思ってBを選ぶと、同じ人たちからやはり「なんでそんなことを」と怒鳴られる
あなたは困ってしまいます
これはグレゴリー・ベイトソンが「ダブルバインド」と名付けた状況です
こんなところに陥ってしまうと、にっちもさっちもいかないですね
 
予防接種をめぐる問題は、一見するとこの「ダブルバインド」な状況であるかのように思えることがあります
ワクチンを打つと副作用が起きる
ワクチンを打たないと病気になってしまう
どっちに転んでも問題が起きる
特に予防接種に関わっているキープレイヤーたちは、このダブルバインド状態に陥って頭を抱えてしまっているようです
そりゃ、悩むわな
(中略)
「批判されたくない」が唯一の行動原理である厚労省の官僚にとって、ダブルバインド状態は一番困った問題です
なにしろどっちに転んでも叩かれることが、ダブルバインドなのだから
 
このようなダブルバインド状態を回避する一番簡単な方法は、「見なかったことにする」ことです
どちらかを、見ない
例えば副作用のことは「見なかったことにする」
あるいはワクチンで予防できる病気については「見なかったことにする」
こうすれば、(少なくとも表面上は)ダブルバインド状態は存在しないことになります
「なにがなんでもワクチン推進派」が前者で、
「ワクチンと名のつくものはすべて悪」、というワクチン反対派(あるいは「ワクチン嫌い」)が後者になります
 
さて、事物のある一面だけ見て、他を一切無視するというのは小児の態度です
およそ、物事の一面だけにしか価値を見いださず、自分にとって都合の悪い側面を一切無視してしまう
このような一意的な態度をとる子どもっぽい人たちを、僕らはファンダメンタリスト(原理主義者)と呼びます
成熟した大人であれば、たとえ自分に都合が悪い事実であっても、それを正視し、物事の両面を見なくてはいけません
 
ダブルバインド状態とはつまり、成熟した大人であれば避けることのできない宿痾(しゅくあ)のようなものです
成熟した大人が扱う物事のほとんどは、「あちらを立てればこちらが立たない」微妙な難しい問題です
煮え切らない、すっきりしない、一意的に解決策のない悩ましい状態です
その煮え切らない問題を、「煮え切らない問題」としてまるごとそのまま受け入れ、受け止め、
そして落としどころを探しに行くのが、成熟した大人の態度です
 
成熟とはあいまいさと共に生きていく能力のことだ
 
……といったのはフロイトでした』
 
 
これは、まさに前記事で書いた
 
 
という思い込みを回避するために有効な態度だと思います
 
ダブルバインドって言葉も初めて聞きましたが、
おもしろい人ですね
 
 
 
『マスコミのバッシングには、マスコミ・パッシングを
 
最近思うのですが、僕らはそろそろマスメディアを黙殺する、
「マスコミ・パッシング」という戦略を積極的に採用する時にきていると思います
 
僕は今、新聞を取っていません。出張に行った時にホテルに届く朝刊くらいしか読みません
テレビもほとんど見ません。以前はスポーツ中継と映画、そしてドキュメンタリーくらいは見ていましたが、
映画もたまーに映画館に行くか、レンタルDVD以外は見なくなり(最近はそれもなかなか見る時間がありませんが)、
ドキュメンタリーも、演出たっぷりの一種の「フィクション」だと認識するようになってから、ほとんど見なくなりました
インターネットの普及で、テレビとか新聞とかいうメディアの必要性が薄れてしまったから、という側面もあると思います
けれど、もっと大きな理由は、「マスメディアからは欲しい情報が得られない」からです
日本のテレビや新聞では、謎が解けるよりも謎が増えてしまうことが多いのです
いつも同じ語り口、いつも同じ論調、いつも同じ仮想敵とそのバッシング、ということで展開はワンパターンなのですね
 
今朝(2010年9月4日)、たまたまつけたテレビで偶然、帝京大学病院でアシネトバクター感染症が多発し、
死亡者が出たことが報じられていました
しかし、僕はそのニュースを見ていて、何のことだかまったく理解できませんでした
 
アシネトバクターは院内の感染症を起こすことで有名で、そのこと自体は珍しいことではありません
病院に過失があったのか、あるいはその他の原因があったのか、ニュースはそのあたりについては一切語りません
そのテレビのニュースは「なんとなくある大学病院が悪いことをしている」ような印象を、
映像からメッセージとして伝えていますが、具体的に何がどう問題だったのかはまったく理解できないのです
僕のような感染症のプロが見てもさっぱりなのですから、一般の方には全然理解できなかったのではないでしょうか
結局そのニュースが伝えたかったことは、
「大学病院がひどいことをやっている」っぽいメッセージを流しただけなのでした
 
(中略)
2009年にインフルエンザのパンデミックが起きた時、関係者が一様に言っていたのは
「とにかく大変だったのはマスコミ対応だった」でした
先日インフルエンザに関するリスクコミュニケーション・ワークショップをやったのですが、
多くの方が「今後どのようにしてマスコミに対応していくかが課題だ」とおっしゃっていました
しかし、パネリストの内田樹さんはこれに対して、
「メディアはシャットアウトした方がよいと思いますよ」とおっしゃっていました
僕もそう思っていたので、我が意を得たり、でした
 
なぜ、みんな一所懸命メディアの言いなりになり、彼らの要求に応じ、そして親切丁寧に対応し、
記者会見に応え、お辞儀をしなければならないのでしょう
だったら、「今忙しいから、取材には応じられません」と一言言えばよいだけなのではないでしょうか
そういうことをすると、「情報を隠蔽している」とか批判されますが、じゃあ、メディアに情報を開陳したら
きちんとそれを報道してくれるかというと、そんな保証はありません
どうせ記者会見をやったって、正確な情報は流してはくれません
メディアに情報を開陳しなければならない義務など、実はどこにもないのです
むしろ、これだけ情報開示のツールが増えたのですから、なにか開示しなければいけない情報は、
自分のホームページやツイッターか、そういう媒介を介して公開すればよいではないですか
 
今、芸能人などは、結婚の情報などを記者会見ではなくブログに公開することがありますよね
そしてメディアも「ブログによると」と、これを情報のソースに芸能ニュースを報じています
ブログに公開すれば、メディアがいい加減なことを書いたとしても、すぐに元のブログというソースを担保にして
真偽を確認できます
一種のトライアンギュレーション(三角測量的検定)ができます
 
この方法を使えば、いい加減なことを書くメディアもだんだん淘汰されていくのではないでしょうか
まあ、メディアに批判されても、テレビも新聞もスルーして見なければ、
全然気にならず問題にもならない、という考え方もありますが
 
僕は2ちゃんねるとか掲示板の類は見ないので、自分のことがたとえそこでボコボコに言われていても
全然気になりません(というか気がつきません)
ああ、それで思い出しましたが、僕は匿名コメントというのが個人的に嫌いです
それは感情的な嫌悪なので、別に匿名コメントをされる方そのものを否定したりはしないのですが
ですから、僕のブログやアマゾンの書評で、きついコメントをされても全然気になりません
自分の名前を出すリスクを冒さない暴言の類は、トイレの落書きとほとんど同じだと僕は思っているので、
微笑みをたたえて黙殺するだけなのです
 
話を戻します
厚労省の行動規範は「批判されないこと」である、その批判者はメディアです
僕は彼ら(厚労省の役人)によく言います
官僚はメディががいい加減なことを書くといつも不満を言い、軽蔑するくせに、
メディアに批判されることを極度に恐れるのはおかしいのではないか、と
そんなに軽蔑の対象にしているのなら、軽くスルーしちゃえばよいのに
別に選挙に出るわけじゃないんだから
(選挙に出る政治家の方はメディアに露出しないと当選しづらいようですね)
 
メディア・パッシングをすれば、「批判をされないための」という行動規範がなくなります
情報公開は自らのツールを使って行います
そうしたら、今度こそ「本当の行動規範は何か」というより深い命題を検討できるはずなのです
いい考えだと思うけどなあ』
 
 
このへんも僕の最近の価値観と方向性が一緒なので、
おおいに共感した部分です
 
というより、
少し先を行った考えですね
参考になります
 
一般的に何か不祥事があれば記者会見をし、
国民に向けて謝罪するというような形式になっていますが、
 
別にマスコミの言いなりにならなければならないなんて決まりは
どこにもないわけです
また、それは健全な状態でもないと思いますね
 
言い方は悪いですが、
マスコミが調子に乗ってしまうだけですw
 
ミスをしたらごめんなさいと謝るのは大切ですが、
もう少し毅然とした態度を取れるようにならないと、
世にも恐ろしい
 
失敗が許されない社会
 
が形成されていってしまうでしょう
(まあ、すでにそんなところはありますが)
 
 
 
『本当にダブルバインドなのか
 
ここで、少し視点を転じてみましょう
そもそも、本当に予防接種とは「あちらを立てればこちらが立たない」ダブルバインドな状態なのでしょうか
 
すでに立てた前提を覆す
 
いきなり「ちゃぶ台ひっくり返し」ですみません
でも、物事を考える基本は「前提を疑う」ところにあるのです
科学的にものを考える時は、常に健全たる猜疑心を持ち、「前提」と「常識」を疑い続けなければなりません
(中略)
要するにここで申し上げたいことは、
予防接種を打っても打たなくても、多くの方には何も起きない、ということです
 
これが予防接種の本質です
 
ごく少数の人が予防接種の恩恵を受けて病気を回避でき、
ごく少数の人が予防接種を受けなかったがゆえに病気になって苦しみます
 
そして、簡単に言うと、予防接種を行う価値のあるワクチンというのは、
この「予防接種をせずに病気に苦しむ人」と「予防接種を打って副作用で苦しむ人」とを比較し、
前者が後者よりも大きい場合
(単純に数的な問題ではないので、ここでの「大きい」はいろいろなことを意味しています)をいうのです
ややこしかったですか?
でも、がんばってこの部分さえ理解しておけば、予防接種の本質は理解できるのです
 
さて、というわけで、マジョリティ(過半数の人たち)にとっては、
予防接種は打っても打たなくてもネガティブな存在ではありません
つまり、ダブルバインドでなんでもないのです
(相対的には)少数の方がワクチンの副作用に苦しみ、
そして少数の方がワクチンで予防できる(はずであった)病気に苦しむのです
 
もちろん、マイノリティ(少数派)であるから、無視してもかまわないということはありません
ただ、僕らがワクチンについて語るとき、マジョリティ(多数派)たる「何も起きなかった人たち」が
あたかも存在しなかったかのように、マイノリティを過度に強調することがあります
これは僕たちがまれな事象をことさらに大きく扱い、よくある事象
定期的な事象を無視するというへんてこなクセをもっているためです
 
 
 
一般論ですが、
「あれか、これか」という二者択一を迫る命題というのは、あまり成熟した議論を生みません
前にも述べましたが、こういうのは「白髪の小児」の好むところです
僕らはより成熟した命題、「あれも、これも」とか「どの条件なら、あれか」という考え方を、
ここではするべきなのです
病院で個別に接種を受けるもよし、集団で学校や保険所で接種を受けるのもよし
いろいろな選択肢があることが大切なのです』
 
 
いろんな選択肢があることが重要
 
ここに尽きると思いますね
 
guts koporu takkaという名前の、
 
koporuとは、アイヌの言葉〝コポライ(混ざる)〟を、
 
より能動的に〝混ぜる〟という意味でつくった言葉です
 
ワクチンに関しては必要のない限り打たない方針ですが、
 
ワクチン自体が悪だとか、
西洋医学がすべて悪だとか、
そんなことはありえないわけです
 
いろんな選択肢があって、それを混ぜ合わせる
良いとこ取りをする態度が重要なんじゃないかなあ、と思います
 
要は、良い意味での
 
結果良ければすべて良しですね
 
ただ、
ここでもうひとつ重要なことがあります
 
『ゼロリスクという幻想
 
GHQ主導で作られた予防接種法ですが、突貫工事で作られたこともあって、
たくさんの問題点がありました
その一つに、「ゼロリスク」という前提があります
 
当時、義務接種であった予防接種ですが、なんと補償制度が存在しなかったのです
つまり、強制的にワクチンを接種せよ、と国が命じておきながら、何か副作用が起きたときには
補償はありませんよ、という、今から考えるとかなり乱暴なシステムでした
副作用が起きても補償がない……なんていう話は納得がいきませんよね
この問題を払拭するために考え出された苦肉の策が、
「副作用なんて起こりえない」というゼロリスク神話でした
 
万が一有害事象が発生しても、
「これはワクチンの副作用ではありません。あなたが特異体質だったから仕方なかったんです」
という説明がなされました
これは、「この車を運転するのは安全なはずである」という「理念」を援用して、
だからシートベルトもエアバッグもいらない、という発想ですよね
 
リスクがゼロでなければいけない、リスクはゼロに違いない、リスクなんて考えなくてもよい……
という思考停止状態です
(中略)
「ゼロリスク症候群」は、国・政府だけの病ではありません
ワクチンを受ける側の国民も、
「国がやっている予防接種事業なのだから絶対に副作用があってはいけない」という
「ゼロリスク症候群」にかかってしまいました
 
ワクチンというはある物質を(多くの場合)注射で体に打ち込む、極めて不自然な行為です
アレルギー反応を初めとするあれたこれやの副作用は、わずかながら必ず存在します
しかし、その副作用が「あたかもないかのように」振舞っていた国と国民の態度が、
戦後の日本の医療のあり方に暗い影をなげかけてきました
 
ゼロリスクというのはありえない幻想に過ぎません
したがって、この理論はいずれ破綻します
ワクチンのみならず、医療行為は必ずリスクを伴います
薬を飲むのも、心臓カテーテルのような検査を受けるのも、手術を受けるのも、
そしてお産も、必ずリスクがつきまといます
 
外科手術というのは人間の体を刃物で切り刻む行為です。医療現場でなければ犯罪行為ですよ
リスクは当然、ありますよね
それが犯罪でないのはどうしてかというと、人間の体を刃物で切り刻んでも、
なお得られる患者さんへの大きな価値があり、それが手術というリスクを大きく凌駕するような利益だからです
 
医療の本質は、この「リスクを超える利益を得るためのトレードオフ」の行為である、という点にあります
 
この本質を見失ってしまうと、
「ワクチンの副作用ではありません、あなたの特異体質なんです」という詭弁が生じます
「私は責任とれませんから、あなたの自己責任でやってください。ここに同意書がありますから、サインをどうぞ」
という丸投げが生じます
「副作用なんて知りませんよ」という隠蔽が生じます
「お前の責任だ」という「糾弾」が生じます
詭弁、丸投げ、隠蔽、糾弾のいずれも、日本という国の政府と国民が共有してきた
「ゼロリスク症候群」の典型的な特徴なのです』
 
 
 
そう、どんなものをどのように選んだとしても、
 
リスクがない
 
なんて状態はありえないし、
もしそんなことを主張するのであれば必ず違和感が生じます
 
前回の記事で紹介したワクチン推進派の小児科のお医者さんたちが
書いた本に違和感があったのもそこですね
 
まるでワクチンにまったくリスクがないかのように書いている
正確には副作用のことも書いてはいますが、
それをかき消すかのごとくメリットを強調しています
それではいけないなあ、と思いますよ
 
そういうことするから、
お金のことだけを考えている、なんて言われちゃうわけですね
 
ワクチンはバイオテロだなんて、
とりあえずはトンデモ論にしか思えないことでも、
このように
火のないところに煙は立たない
という状況があるわけです
 
それはワクチン反対派にも言えることですけどね
自分の主張のために、
 
都合の悪い部分を隠す
 
ような理屈を展開しても、
最終的に不都合を被るのは自分だってことを忘れてはいけません
 
 
 
『自然でないワクチンは体によくない?
世の中には、自然なものはよいもので、人工的なものはよくないものである、
という素朴な信念をお持ちの方がいます
例えば、天然の調味料はよくて、人工調味料はよくない
無農薬野菜はよくて、農薬を使うのはよくない
病気にかかるのはよくて、ワクチンはよくない……
このような素朴な信念は、ではどのような根拠からきているかというと、
それは意外に大したものではなくて、どちらかというと感傷的な、感覚的な根拠からきていることが多いのです
 
『今時は発酵よりも化学を食べる事が多いんだから、語る時だけ食品添加物をあしざまに言うのはどうかと思うね
食品添加物は我々の生活にスピードを与え手間を省く
前にも言ったが選択することが大事なんだヨ
どちらか一方を礼賛するなんて宗教でもあるまいし
 
だからこそ消費者は知ることが大事なんだよ
無知なままでは踊らされてつかまされても気付かないままだ
少なくとも君ら農大生は農薬は悪でない事を知っているね
農薬は使う人間の側に問題がある事がほとんどだ
 
僕はまんが『もやしもん』の大ファンですが、いいこと言うなあ
 
ワクチンというのは自然物である病原体を加工して(多くの場合)注射し、僕たちの免疫能力を引き上げるという物質です
ワクチンの大元は自然物ですし、引き上げられた免疫力も僕ら自身の免疫力で、別に人工的なものではありません
どこまで加工したら、自然物が人工物と呼べられるようになるのかなんて、
あくまでも恣意的な規定に過ぎないのです
 
例えば、肉に火を通したらこれは人工物でしょうか
野菜に塩をかけたらこれは人工物でしょうか
どこからが自然でどこからが人口か
この「自然物か人工物か」という議論はナイーブな、意味の小さな議論です
また、仮に自然か人工かの分別が可能だったとしても、何の吟味もなしに
「人口物だから悪いもの」と談じるのもまたナイーブな議論です
 
『自然なものが良いとはかぎらず、自然でないから悪いともいえない
自然界には、ヒ素コブラの毒、放射性元素地震、エボラ・ウイルスなどが存在しているが、
ワクチン、眼鏡、人工関節などはすべて人間が作ったものだ
サイモン・シン、エツァート・エルンスト『代替医療のトリック』 青木薫訳 新潮社 2010年)』』
 
 
 
という引用を持って、
いったんワクチン・予防接種のレポートを終えようと思います
 
これに関しては、マンガ範馬刃牙のお父さん、
範馬勇次郎がこんなこと言っています
 
 
『防腐剤…着色料…保存料…、様々な化学物質。身体によかろうハズもない
だからとて健康にいいものだけを採る、これも健全とは言い難い
毒も喰らう、栄養も喰らう。両方を美味いと感じ、血肉に変える度量こそが、食には肝要だ
 
 
 
さすが勇次郎ですねw
 
何事も偏らず、〝良い面を見極める〟態度が大切だと思います
 
だって、毒蛇に噛まれたら血清を打つでしょう?
もしかしたら自然治癒させる方法もあるのかもしれないけど、
ハブとかそんなのに噛まれたら、僕だったら血清を打つなあ
 
ナチュラル(自然)な姿勢は尊いけども、
ケミカル(化学)を否定するのはどうだろう?って思いますよ
 
 
 
この岩田健太郎さんの本に関しては、
 
子宮頸がんワクチンも同列に扱っていることと、
 
好き嫌いで物事を判断するなって頑なに言ってるように僕には思えたところで
少し引っ掛かりはありましたが(本当にそうかな?と思います)、
 
概ね素晴らしい見識をお持ちの方だと思います
 
 
 
ではこんなところで、
ワクチン・予防接種に関するレポートを結びたいと思います
 
このblogは、
新しいblogへの移行のお知らせを最後の投稿にしたいと思っていますので、
それまでしばしお待ちください
 
ではまた次回!

ワクチン、予防接種に関する学習レポート その2

年始のごあいさつ以来ですね!

guts koporu takkaです

 

ワクチン、予防接種関係の本をいったん、

ひと通り読み終えましたので、

このblogの最後の大仕事としてレポートを作成しようと思います

 

新しいblogは書籍の紹介だけではなく全方位的に書こうと考えていますが、

本を紹介するにしても、

このblogよりも少し引用を抑えて、

僕の文章をメインに持ってこようと考えています

 

もちろんこのblogで引用をメインに持ってきていたことにも意味はあります

それは、

自分と同じセンテンスに共感してくれる人を探す試金石でもあり、

僕にいろんなことを教えてくれた本への敬意でもあります

 

おや、一人称がいつもの〝私〟から〝僕〟になっていますねw

このへんもはっきり言ってブレブレなんですが、

もっと自由にやろうと考えています

 

このワクチン、予防接種レポートに関してはどうしても引用を

多く使うことになりますので、

このblogの最後にはちょうどいいかな、

と考えました

 

本当は移行したいと考えたらすぐにするのが一番健全なのかもしれませんが、

自分のこのblogへの最後のプレゼントでもあります

では、最後まで〝丁寧に〟書き綴ってまいりましょう

 

 

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VPDを知って、子どもを守ろうの会、0歳からのワクチン接種ガイド

 

 

 

 

アプリオリ〟に陥らない。そして逆に偏った人たち

 

この本は、どちらかと言うと‥

と言うより、

がっちりワクチン推進派の本ですね

なんせ小児科連盟みたいな人たちが出している本ですから

 

どちらかと言うとワクチン懐疑派の僕ですが、

偏らないようにしようという思いから、

こういった本も読みました

 

アプリオリ〟という言葉があって、

簡単に言えば、

何かを学んだりする前に、思い込みだけで物事を判断してしまう

実際に観測する前に、

太陽が地球の周りを回っているような気がするからって、

それを絶対だと主張してしまうようなことですね

 

実際には、太陽の周りを地球が回っていたのはご存知の通りです

 

そういった状態にならないように、

推進派、否定派両方の意見を入れたということです

 

『「ワクチンさえ接種していれば、こんなことにはならなかったのに…」という思いは、

ほとんどの小児科医が経験したことのあるものです
お子さんがVPD(ワクチンで防げる病気)にかかり、重い後遺症が残ったり、
場合によってはお子さんを亡くしてしまったりしたら…
ご家族の無念さや心の痛みは、とても私たちが書き表せるものではありません
 
世界中のみんながなぜ痛い思いをしてワクチンを受け、
麻しんなどのVPDがなくなることを願っているのか、考えてみてください
かかると今でも治療が難しくて、命にかかわる病気だからこそ、ワクチンが作られたのです
VPDはワクチンで防ぐべき病気なのです
 
病気とはこわいものです。失った命や健康は戻ってきません
ワクチンで防げる病気は予防しましょう』
 
 
順番に引用していきますが、
ここで僕が引っかかるのは、
『VPDはワクチンで防ぐべき病気』というセンテンスと、
『病気とはこわいものです』
というところ
 
煽っている感じがしますね
僕の偏見かなあ?
でもなんだかイヤな感じはするんですよね、個人的にですが
 
 
 
 
『ワクチンの副作用(副反応)と安全性の話
 
ワクチンを接種した後に熱が出ることはよくあります
でも、こうした症状の大半は、別の病気でたまたま起きたもので、
ワクチンの副作用ではありません
ワクチンによる真の重い副作用は極めてまれにしか起こりません
ワクチンは、VPD(ワクチンで防げる病気)から子どもを守る、
安全性が高い予防法です
 
ワクチンは極めて安全な医薬品の一つです
しかし、副作用がまったくない医薬品はないように、
ワクチンも接種した後に副作用(副反応)が起こる可能性はゼロではありません
ただし、ほとんどの副作用は軽い症状で、重大なものではありません
特に重いアレルギー体質や免疫の病気などがなければ、
健康な子どもたちに重大な副作用が起こることは極めてまれです』
 
 
陰謀論〟のようなものは、
自分の主張に都合が良いように論調が偏っています
そのへんも、否定派の本だけを読めない理由ですが、
これはこれでもの凄く偏っている気がするのですが‥w
 
まず、ワクチン接種後の発熱などはワクチンの副作用ではないと言い切っていますね
ほんとに良いのかな?そんなこと言ってしまって
わからないと思って言ってるようにしか思えないんだけど‥
 
そして、
『ワクチンは極めて安全な医薬品の一つです』と言ってますね
確かに確率的に見れば
副作用を起こす人より何も起きなかった人たちのほうが多いんだと思います
 
だけど、ワクチンって〝劇薬指定〟されているはずだけど‥
まあ〝小児科医〟の人たちが書いた本だからある意味仕方はないけれど、
このへんが〝偏っている〟と感じるところですね
 
 
 
続いて、〝同時接種〟に関する引用をまとめて上げます
 
『Q4 同時接種のデメリットを教えてください
 
A デメリットはありません
同時接種は世界中のあらゆる人種や民族の子どもたちに対して、
10年以上前から行われていますが、何も問題は起こっていません
1回の受診で注射の本数が増えるので、保護者は辛いと感じることがあるようです
しかし、単独接種であっても受ける注射の回数は結局同じですから、
デメリットではありません
接種部位が腫れたり赤くなったりするなどの局所反応や発熱などが増えるのではと
心配されることもありますが、
1種類ずつ接種するのと同じです
痛みに関しては、子どもの泣き方を見ていても1本だけ接種した場合と、
5~6本接種した場合も、大差はありません
そのために、自分の子どもに同時接種を受けさせたことのあるほとんどの保護者は
次回も同時接種を希望します
 
 
 
Q9 子どもの体質などで同時接種をしないほうがいい場合はありますか
 
A ありません
逆に重い病気を持っている子どもの場合は、VPDにかかれば重症になりやすく、
接種のために何度も受診するのがたいへんなので、世界中で同時接種が強くすすめられています
 
 
 
Q10 万が一、同時接種で重大な副反応が起こったらどうしたらよいですか
 
A ワクチンの接種後になんらかの症状や病気がみられた場合、これらすべてを有害事象と呼びます
有害事象には、ワクチンによるもの(副反応)と、
ワクチンによらないもの(ワクチンとは無関係なことがたまたま起こっただけ)があります
医学的には有害事象のほとんどがワクチンとは無関係であり、ワクチンによる重大な副反応が起こる確率は
極めて低いことがわかっています
同時接種を行って副反応が起こったとしても、ほとんどの場合、どのワクチンによるものか区別できませんが、
ワクチンによる健康被害救済制度では、
どのワクチンによるものかは問題にしないで救済対象とすることになっています
安心して同時接種を受けてください』
 
 
 
う~ん、やり過ぎですね!
この本の著者たちが小児科医のすべてなら、
僕は絶対に予防接種を受けさせようとは思いません
(もちろん実際は、こんな人たちばかりではないと思っています)
 
まず、デメリットは〝ありません〟と言い切ってるけど‥
そんなものがこの世界にあるか!!っちゅう話です
何かをするのに〝リスクがない〟なんて言い切る人を僕は信用しません
先述したように、
副作用が起きた人より、起きなかった人のほうが大半でしょう
そしてワクチンによる恩恵を受けた人もきっといたはずです
だけど、デメリットがないなんて言い切るのであれば、
うさんくさいとしか言いようがないですね
そんなものはないです。断言できます
 
『単独接種であっても受ける注射の回数は結局同じですから、
デメリットではありません』
 
バカにしているのでしょうか‥
結局同じ種類のものを、同じ分量注射するとしても、
 
〝同時に異なったものを数種類〟注射することと、
〝それぞれ別のタイミングで〟注射することが、
 
同じわけはないと思うんだけど‥
結局僕は医者でもなければ疫学者でもないけれど、
さすがにこれは違うだろうと思いますよ
これで不信感を持たない人がいたら、
アホなんちゃうかな、と思うくらいです
 
 
 
『なぜワクチンを受けなくてはいけないのですか?
(中略)
現代社会では、赤ちゃんや子どもはもちろん、大人も含め皆が適切にワクチンを接種して、
必要な免疫をつけておくことは、地域社会でVPDの流行を防ぐためにとても大切です
VPDが流行しなければ、免疫力の弱い人たち(ワクチン接種前の赤ちゃん、妊婦、
病気のためにワクチンを受けられない人、高齢者など)も、VPDから守られます
これがワクチンの「社会防衛(集団免疫効果)」と呼ばれる一面です
ワクチンを接種することは、自分の子どものためだけではなく、
周りにいるみんなのためでもあるということを忘れないでください』
 
これに関しては、
一概に否定できないです
 
確かに、自分たちのことばかり考えればいいとは言えないし、
集団防衛という効果も期待できるのかもしれません
 
だけど、
さまざまな理由から〝打たない〟と決めたときに、
その自由がきちんと保証されているのかな?とは思います
 
あまりこういう風に〝全体主義〟的な考えが浸透してしまうと、
選択の自由というものが、形としてはあったとしても、
事実上ないような危険な状態が生まれてしまうんじゃないかな、
と思います
 
僕ら夫婦はわりと図太いのであれですが、
世の中にはママ友なんかに
「どうして予防接種しないの?しないならこの幼稚園に来ないでちょうだい!!」
 
みたいなことを言うエセリーダー(やたら〝みんな〟とか言う人)の発言に、
逆らえる人ばかりではないと思うんですよね
 
まあ、いちばん個人的に言いたいのは、
 
おたくのお子さん、予防接種打ってるなら大丈夫なんじゃないの??
 
ってことなんですけどねw
打っててももちろん完全に予防できるわけじゃないのは知ってますが、
選択の自由を認めないような愚か者には、言ってあげたいひと言ではあります
 
 
あと、この本で気になったのは、
〝子宮頸がんワクチン〟に関しても、のほほんとした雰囲気で勧めていたことですね
 
出版したタイミング的に、もう重篤な害作用のニュースが全国的に出ていたと思うんだけど‥
 
 
 
 
 
ワクチン否定派の方々の引用
 
以下、
しばらく否定派の人の書籍をしばらく引用のみ引っ張ってみます

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母里啓子、インフルエンザ・ワクチンは打たないで!

 

 

 

『インフルエンザ・ワクチンは接種する医師にはいい商売になります

 
ワクチン産業が息を吹き返してくる過程で、現場の医師たちはどうしていたのでしょうか
もちろん、インフルエンザ・ワクチンが効かないということを公言し、
自分は打たないという立場をつらぬいている医師もたくさんいます
でも、どうして多くの医師たちはインフルエンザ・ワクチンを奨めているのでしょうか
 
はっきり言ってしまうと、インフルエンザ・ワクチンを扱うと、医師は儲かるから、なのです
ワクチンの値段は、各医療機関によってかなりのバラつきがありますが、
相場は1本3000円、子どもなら2回打てるから6000円です
しかも、はしかなどの予防接種とは違い、毎年毎年、あらゆる年代に打てるのですから、
こんないい商売はありません
 
シーズンになれば、大きな病院には1日に100人くらいがインフルエンザ・ワクチンを
打ちに来たりするわけです
ワクチンを打つのには5分とかかりません
1人分のインフルエンザ・ワクチンの仕入れ値は約1000円だから利益は2000円
100人が病院へ打ちに来てくれれば、たったの1日で20万円の利益です
インフルエンザ・ワクチンのおかげで、職員のボーナスを出せた、と喜んでいる話をよく聞きます
「これはやめられません」ということになるでしょう
 
ところで、医師たちは、インフルエンザ・ワクチンの問題点を知りながら、ワクチンがいい収入になるから、
口をぬぐって打ち続けているのでしょうか?
もちろん、そういう人もいるかもしれませんが、じつは、インフルエンザ・ワクチンを奨める医師たちの多くは、
実際のインフルエンザ・ワクチンの効果をよく知らないことが多いのです
厚労省発表の研究結果やガイドラインはもちろん読んでいるはずです
けれど、それ以上の勉強はしていないでしょう
それどころか、インフルエンザ・ワクチンに限らず、ワクチンはいいものと信じている医師が多いのです
 
人間の歴史は病気との闘いの歴史でもあります
だから天然痘ワクチン(種痘)を開発したジェンナーなどは、
わが子に種痘をして効果のほどを確かめたという美談とあいまって
(実際に実験台にしたのは、ほんとうは他人の農夫の子だったのですが)、
医学界のヒーローの一人になり、近代免疫学の父と呼ばれています
西洋医学を学んだ医師たちがワクチンを善き物と考えるのは当然のことでしょう
けれども、ワクチンは万能薬ではありません
近代になって人間によって作られたものであり、当然ながら欠陥も限界もあるものなのです
 
そうしたことを若い医師たちが医学教育の中で学ぶ時間は、残念ながらあまりありません
4年間で全部の科を一通り学ぶわけですが、その立て込んだカリキュラムの中で、
ちゃんとワクチンの問題に触れることができているのかなという気はします
ワクチン信仰というか、ワクチンはいいものだ、というプラスの面しかインプットされていない医師もけっこう多いように思えます
 
なにより、医師というものは忙しすぎます
ほとんどの医師は日々の診療に追われており、勉強する時間もあまりありません
一度免許をとったら一生そのままです
ですから、自分の病院に「インフルエンザ・ワクチンを打ちましょう」というポスターを貼ることに
多くの医者はためらいがないのです
 
 
 
影響力の極めて大きな新聞記事が、首尾一貫して、不安をあおりワクチンを奨める記事ばかりなのが気にかかります
雑誌では、お母さん向けの赤ちゃん育児雑誌の付録に、かわいいイラスト入りの「ワクチン・カレンダー」がついていて、
びっくりしたことがあります
打ち忘れのないようにしましょう、というわけです
育児雑誌でもこのようにワクチンを推奨されては、まじめなお母さんであれば決して無視することはできないでしょう
かつてあるテレビの報道番組の中で、インフルエンザ・ワクチンについて批判的なコメントが流れたことがありました
ところが、翌年同じ番組の中で、前の年にワクチンの批判をしたタレントが、インフルエンザ・ワクチンを打って見せるという
場面が放送されました
こうした状況を私たちはどう受け止めていけばいいのか。ほんとうに難しい問題だと思います』
 
 
 
 

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ワクチントーク全国 「新・予防接種へ行く前に」編集委員会、新・予防接種へ行く前に

 

 

『パンフレットをはじめ、ワクチンをすすめるマスコミや研究者の声には、

多くの落とし穴が仕掛けられてもいます
病気への恐怖をあおったり、予防接種の効果を過大視したり、
副作用を軽視したり目立たないようにしたり
かなり、巧妙です
それらに、だまされないようにしなければなりません
 
ですから、この本はあくまで、
「予防接種を受ける側」の立場にたって、
手に入るかぎりの科学的真実を提供しようとつとめました
ただ、予防接種には複雑で未解明のところがたくさんあります
個々のこどもや親や医者によっても、考え方にちがいが出てくるはずです
ですから、この本といえども、絶対視しないでほしいと思います
 
 
 
判断するのための情報提供として、予防接種リサーチセンターが発行している
『予防接種と子どもの健康』というパンフレットがあります
しかし、内容をみると、接種をすすめる立場が強調されすぎていて、
予防接種のマイナス面の情報や、接種される側に必要な情報が非常に少ないのが目立ちます
親が責任をもってこどもに受けさせるかどうか判断するためには、
これらの情報もふくめてできるだけ十分な情報を集めて、慎重に考えることが必要です
 
無菌状態で赤ちゃんを育てることができないように、人は病気にかからずに
一生をすごすことはできません
病気はいわば空気の循環のようなもので、なくなることはありません
自然との関わりあいのなかで、人は病気にかかり、病気とつきあいながら生きていきます
うつる病気をすべて防ぐことはできないですし、また、そう考える必要もありません
ですから、この本などを参考にして、よく考えてから、必要と思う予防接種だけを受けましょう
また、受ける場合も、自治体によっては集団接種のところもありますが、
やむを得ない場合は別にして、なるべくかかりつけの病院・医院で個別に受けるようにしたいものです
病気を防いだり、軽くすませるためには、予防接種よりも大切なことがあります
それは、こどもを心身ともに疲れさせないこと、楽しい日々を過ごさせること、
十分な栄養と睡眠をとらせることです
そうしたことで、病気に対する免疫力がしっかりとアップするからです
それにくらべて、予防接種による免疫は不確実で長続きしません
情報がなければ、正しい理解はできません
予防接種のマイナス面の情報もふくめて、できるだけ十分な情報を集め、
慎重に考えることが必要です
 
 
 
日本のワクチンは、審査基準の甘さから、外国では発売中止になったものまであります
ワクチンをすすめる側が宣伝するような、「副作用の頻度も少ない」ものではないのです
過去に副作用が多発して中止したMMRワクチン(麻しん・風しん・おたふくかぜの混合)の
経験を忘れてはいけません
HIV(ヒト免疫不全ウイルス)の血液製剤事件のときも、当時の厚生省は副作用を隠し、
欠陥のある製剤の回収もきちんとしませんでした
こうした体質が変わったと、だれが断言できるでしょうか
 
2011年3月には、肺炎球菌ワクチンとヒブワクチンの同時接種を受けた乳幼児八人が
相次いで命を落としました
それについても、一次接種を見合わせたものの、厚生労働省
「直接的な、明確な因果関係は認められないと考えられる」として、
四月には再会を決定しています
 
 
 
受けると判断したとき、気をつけること
 
厚生労働省は、ワクチンに関して正確な情報を伝える責任があります
でも、残念ながら、とうていそれを果たしているとはいえません
パンフレットなどで
「予防接種は体調のよいときに受けましょう」などといっていますが、
それを守ったから絶対に大丈夫ということはありません
こうした文言ひとつとっても、万が一副作用が起きたとき、どれほど親が自分を責めつらい思いをするか、
想像できないのでしょう
ワクチンの副作用は、こどもの体調がよくても、かかりつけの医師が大丈夫といっても
起こることがあります
体質と体調を考慮することは大切ですが、
そうしたこととは関係のない副作用は起こりうるのです
 
予防接種をするかを決める前に、現在の病気の流行状況、感染した場合の後遺症が
どの程度であるかを知ることです
また、副作用が起きた場合の対処のしかた、予後の状態など、親が判断するために
必要な情報提供が必要です
しかし、これらについて納得がいくまで説明ができる医師がはたしているのでしょうか
保護者に判断をゆだねているわりには、厚生労働省の資料公開はきわめて不十分です
 
接種後の副作用の起こりうる期間の注意についても、
以前は「生ワクチンは2~3週間、不活化ワクチンでは24時間」とありましたが、
理由なく延長されたりしています
「生ワクチンで数ヶ月」、「不活化ワクチンで1ヶ月」のあいだ、なにか変わったこと、
気になることがあればワクチンの影響を考えてよいでしょう
ワクチン被害にあった方のなかには、この間のこどもの様子を観察し、記録に残すことをすすめる方もいます
ワクチンは、効果の点でも、副作用というリスクがあるという点からも、慎重にあつかうべきものなのです
それなのに最近では、同時接種も必要だと、乱暴な打ち方を推奨しています
 
 
 
接種率向上に熱心な国や市町村の職員には、被害の実態やその救済について
歴史的な理解と認識が乏しいため、被害者の心をさかなですることがありうるのです
接種医や行政にとって深刻な被害は起こってほしくないのですから、
救済の壁はけっして低くはないのです
そういう現実があることをしっかりとおぼえておいてください』
 
 
 
 

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藤井俊介、まちがいだらけの予防接種 子どもを愛するすべての両親へ

 

 

 

『予防接種は、これまでは〝義務接種〟、つまり国の強制でした

それが1994年の予防接種法改正で、
「接種するように努めなければならない」という〝責務接種〟に切り替えられました
これは、20年間にわたって各地で争われてきた予防接種のすべての集団訴訟で
国が全面敗訴したことと、
現在行われている予防接種の多くが必要性・有効性・安全性の面において疑わしいことが
知られるようになってきたためです
 
悲惨な予防接種の被害に遭った子どもを何十人も見てきた私のような者としては、
強制接種でなくなったのは一歩全身と考えることができますが、同時にこのことは、
これまで国の責任だった予防接種が親の責任にすりかわったということでもあります
 
私はこの本で、みなさんに「予防接種をしなさい」とか「止めなさい」とか、
親の最も責任ある判断に対して指図をするような、越権行為をするつもりは毛頭ありません
しかし法律は、「親の責任と義務」において自発的に子どもに接種させよというものですから、
これを拒否すれば「無責任な親」だとか「親の義務を果たしていない」とかと医師に説教される
事態が予想されます
 
法改正にともなって、厚生省は
「予防接種と子どもの健康」というパンフレットを全国の市町村に配布しました
これをモデルとして、一般の母親へ「啓蒙」せよとの指令です
今後おそらくみなさんのところへも、このパンフレットをもとに作られた案内書が届けられる、
あるいはすでに届いていることと思います
しかし、このパンフレットの内容は、ひとことで言うと〝脅し〟です
 
まず、それぞれの病気について、
「窒息死することがある恐ろしい病気です」(ジフテリア)
「命を落とすこともあります」(百日咳)
「一生のうちに一度は必ずかかる重い病気です」(はしか)
……等々、
〝恐ろしさ〟を強調したうえで、
「お子さまのため、ぜひ予防接種を受けましょう」と結ばれています
ところが、ではいったいそれらの〝恐ろしい病気〟で命を落とす子どもが
現在どれくらいいるのかということはほとんど書かれていませんし、
予防接種の副作用については「まれに~の症状が出ることがあります」などと軽く触れられている程度で、
どんな被害がどれくらい出ているのか、厚生省の認定患者数すら明らかにしていません
 
そして恐ろしいことに、予防接種の有効性・安全性については、
「正しく実施すれば一生涯免疫が続きます」とか
「現在日本で使われているワクチンは、世界の中でも優秀なもので、副反応の頻度も少ないものです」など、
根拠(実証するデータ)のない表現、つまりウソが堂々と書かれています
 
そしてこのパンフレットの使い方についての厚生省から市町村への指導は、こういうものです
まずこのパンフレットを親に配り、それぞれの親が読んでから予防接種を受けに来るようにせよ
もし接種を受けに来た親がこれを読んでいなければその場で読ませ、
「納得しましたか、では注射しましょう」というかたちにせよ
つまり、マイナスデータはひた隠しにしたまま厚生省の思惑通りに予防接種を受けさせ、
責任だけ親になすりつけよう、というのが実態です
 
こういう状況ですから、これからはみなさん一人ひとりが実態をよく把握して、
予防接種を受けるか受けないか、
受けるとしたら何を、いつ、どのように受けるかについて考え、判断しなければならないのです
そのためには、厚生省が発表しないデータ、つまりワクチンメーカーにとって
都合の悪いデータも知っておく必要があります
予防接種では、必ずだれかが事故に遭います。実際に被害を受けてからでは遅すぎます
何よりも子どものことも考えて、みなさん自身が責任をもって判断してください
 
 
 
こんな「責務」を果たす必要はない
 
「予防接種に問題があることはわかったけど、でも子どもに予防接種を受けさせることは法律で
親の『責務』と規定されているんでしょ。これをどう考えればいいのか」
と不安を感じられる方もおられることでしょう
 
かつての予防接種には罰則がありました
予防接種を受けないと3000円の罰金です
私は、義務接種である以上、守らなければ罰則があるのは当然と思っていました
1967年、私の月給が8000円でしたから、
この罰金は今の貨幣価値に換算すると12~13万円です
 
この年、私の長女(生後10ヶ月)は百日咳ワクチンの害作用で重度障害児にされてしまいました
しかし、罰則を設けてまで強制されながら何の補償もありませんでしたし、
長女をこんな目に遭わせた予防接種を次女に受けさせることはできません
 
そこで私は厚生大臣に、
「私は次女には予防接種を受けさせていない。法律によって罰則を課すのが法治国家の責任だ」
という公開質問状を内容証明郵便で送りました
すると数日後に厚生省の係長から電話がありました
 
係長「あの質問状の答えは勘弁してほしい」
 
私「そんなバカな話はない。あなたたちは国家公務員ではないか。公務員は法律を守る義務がある
法律を守らない藤井俊介に罰金を課さないのはおかしいではないか」
 
係長「しかしそれだけは堪忍してほしい」
 
私「それなら、そのことを文書にして送ってください」
 
係長「それもできません」
 
私「厚生大臣はあなた方の公務員法違反をどうするつもりなんだ」
 
係長「一度、厚生省へ来てください」
 
ということで私は厚生省へ行きました
するとI課長補佐が出てきて、
「あの法律は制定当時から適用するつもりはなかった」と言うのです
つまり、国民に予防接種を受けさせるためのオドシだったのです
私たち庶民は、法律は社会生活をするうえでの共通のルールだと思って、
子どもの命を犠牲にしてまで守っているのですが、役人にとっては、
下々を支配するのに都合がいいように、適用したり無視したりしてよいものなのです
 
こういった経緯もあって、1977年の法改正で罰則はなくなりました
ところが相変わらず「義務接種」という言葉が使われ続けました
そして、義務だけれども「受けない」という選択が許されてきたのです
いっそのこと税金もそうだとうれしいのですが
 
1944年10月の法改正で、「義務接種」が「責務接種」になりました
「責務」を広辞苑で引くと「義務を尽くすべき責任」とあります
義務の上に責任まで付くのですが、官庁用語では義務よりは少しゆるい表現なのだそうです
しかしこれもオドシ臭い使い方です
厚生省の説明では、
「こういう言葉を入れておかなければ事故の時に救済できない」のだそうで、
つまりこれは事故は必ず起こるということを前提として被害者救済用に付けられた言葉なのです
そんな「責務」を果たす必要はありません。無視して何ら差し支えないでしょう』
 
 

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福井母乳育児相談室、予防接種どうしてる?

 

 

 

『「受けない」が原則

 
もう少し正確に言わせていただくと、予防接種は原則としてまず「すべて受けない」のがいい!
予防接種はまずやらないということを大前提にすべきだと、僕は思います
なぜかというと、どんな予防接種でも全て副作用がありうるから、
その中でどうしても「やっとかなくちゃしょうがないかな」というものだけを
「選ぶ」というふうにすべきだと思うのです
 
薬だって「飲むと丈夫になる」って、ポッポ、ポッポ、飲まないでしょ
どうにも頭が痛くてしょうがない、ゾクゾク寒気がして、つらくてしょうがないから
薬を飲むっていう話ですよね
まして注射になったらさ、痛いしね
怖いしね、バカバカ注射しないよね
ちょっと疲れたくらいでは受けないで、もうつらくてつらくてしょうがないから、
こりゃ我慢して注射も受けようか、という話ですよね。手術ならもっとですけど
 
ところが、何で予防接種だと皆さん喜んで受けるのか、僕は不思議でしょうがないですね
しかも予防接種っていうのは、普通の薬とは大いに違う性格があります
それも重大な違いがあるんです
薬は病気を治す働きがあって、まぁそれだけの話なんですが、予防接種というのは、
人や他の生物の免疫の働きに人工的な変化を与えるわけです
ですから、たとえ副作用が起きなくてもですね、予防接種を受ければ、
身体の免疫の働きが変形されちゃうわけですね
こりゃ普通の薬よりよほど重大に考えないといけないことです』
 
 
とまあ、
ここまでは賛否ありつつも、
おおいに参考になるなあって感じです
 
ただ、次に紹介する本は少し注意が必要です
 
 
 
 
 
〝予防接種〟はバイオテロ……? 
 

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船瀬俊介、効果がないどころか超有害! ワクチンの罠

 

『ロックフェラー巨大財閥が支配する米国の政府機関、CDC(米疾病予防管理センター)ですら

次のように予測している
「実際に報告されているのは、重篤な副作用のうち10パーセントにすぎない」
別の米政府機関の見解はさらに絶望的だ
「多くの医師が副作用事故を報告しないように訓練されている。そのため、実際に報告されるのは
1パーセント以下」
 
とても信じられない話だが、この説を裏づける証拠もある
2013年3月、東京都杉並区議会で、区内の女子中学生が子宮頸がんワクチンの副作用で
重い後遺症に苦しんでいることがとり上げられた
この一件が報道され、市民団体「全国子宮頸がんワクチン被害者連絡会」は結成された
同会には、たちまち300を超える相談が殺到
しかし、そのほとんどが国に報告されていなかった
同会の発足がなければ、永遠に闇へと葬られていただろう
この現実を考えると、実際の被害者数は厚労省発表の100倍超でもおかしくない
事務局長の池田利恵・日野市議は、
「後遺症を診察した医師も、被害者自身も、ワクチンの副作用だと気づかないケースが多い」と話す
先ほどのTさんも母娘もそうだった
まさか、ワクチンが原因とは思いもしない
「原因不明」として処理されたり、ほかの病名を告げられたりしたケースも無数にあるだろう
ワクチンを投与した医師すら被害の発生に気づいていない
厚労省に報告する以前の問題である
 
 
 
10万人中、効果があるのは多くて「7人」
 
「このワクチンで効果がある可能性のある人は、全女性の0.007パーセント
10万人のうち7人でしかありません!」
2013年3月、参議院厚生労働委員会の議場に鋭い声が響いた
質問主は生活の党のはたともこ議員
あまりに低い〝効果〟に会場は騒然とする
しかもこの数値は、厚労省の機関である国立感染症研究所が10年7月にまとめた
「HPVワクチンに関するファクトシート」にもとづくデータだ
政府の公式見解なのだ
10万人の女性に子宮頸がんワクチンを打っても、予防効果の可能性はたった7人
残り9万9993人にメリットはいっさいない
そこに300億円超もの国費を投入する
費用対効果を考える以前の問題だ
それどころか、99.993パーセントの少女たちには「劇薬」ワクチンの副作用リスクが襲いかかる
まさに狂気としかいいようがない
 
なぜ政府は、それでもワクチンを打たせようとするのか
子宮頸がんワクチン強行の狙いは、じつは子宮頸がん予防ではなくほかにある
そう解釈すれば、狂気の推進政策の真意が見えてくる
結論からいおう。真の狙いは人口削減のための「不妊政策」である
もうひとつは、さまざまな病気の〝種〟を仕込む「時限爆弾」としての役割である
要するに、ワクチンの正体は、国家を超えた〝巨大な力〟によるバイオテロである
恐るべき生物兵器なのだ』
 
 
 
 
……このへんで、僕は読むのをやめました
 
個人的には、こういった〝陰謀論〟のような話はまったくないとは思っていません
僕らが知ることができる位置にいないだけで、
こういう目の玉の飛び出るような話も真実として存在しているのかもしれません
 
ただ、いまの段階でこの本をこれ以上読み進めるのは危険だな、
と判断しました
 
最初に書いたように、偏っては元も子もありません
いま十分にワクチン懐疑派に傾いている僕にとっては、
この本の内容をまるまる信じてしまったら
 
シーソーの片方に肥満児を乗せる
 
ような、反則状態ですw
 
ツッコミどころもありますしね
 
『ロックフェラー巨大財閥が支配する米国の政府機関、CDC(米疾病予防管理センター)ですら
次のように予測している
「実際に報告されているのは、重篤な副作用のうち10パーセントにすぎない」
別の米政府機関の見解はさらに絶望的だ
「多くの医師が副作用事故を報告しないように訓練されている。そのため、実際に報告されるのは
1パーセント以下」』
 
さらっと言ってるけど、別の米政府機関〟ってどこなの?と思うし、
 
先を読み進めればわかったのかもしれませんが、
バイオテロとまで言ってしまっているけれど、
仮に本当にそんな事実があったとして、
 
著者の方は本当にそんな情報にアプローチできる人間なんだろうか…
 
という素朴な疑問もあります
まあこのへんはなんとも言えませんけどね、
読むのやめちゃったので
 
 
なんにせよ、
ある意味究極に知識が偏ったところで、
最後に読んだ本が少し僕のバランスを取り戻してくれました
 
その本の紹介は次回に譲ろうと思います
 
ではまた次回!

新年のごあいさつ

あけましておめでとうございます

 

guts koporu takkaです

 

 

皆さんとの約束を破り1週間以上更新していない状態ですが、

これには理由があります

 

少し前の記事を(前回だったかな?)

読んでくださった方は記憶にあるかもしれませんが、

私の〝中身〟がblogを始めた頃とかなり入れ替わってしまったので、

 

テーマを変更する

 

ことをしなければ、

この状態でblogを続けることが難しくなってきています

まあ、つまりblogを新しいものに移行させるということです

 

なので、あえてblogの〝継続記録〟みたいなものを自分で壊しました

 

連続〇日とか、連続〇週間とかいうものが続いていると、

それでもなんだか書かなきゃいけないような気がしますからね

 

習慣化させることはとても大切だけど、

なんだかいまの状態で無理に書き続けるのもなにか違う気がしたので

 

そういう状態ですが、

たまにアクセスをチェックすると毎日一定数の方が覗きに来てくれているので、

説明しておかなければと思いこれを書いています

ここまで覗きに来てくれている人に向けてだけ書いているので、

facebookの方にはシェアしませんが

 

本当にありがたいことです

 

 

このblogはあと1回、

予防接種に関するレポートの第2回を書いて終える予定です

 

次のblogは準備が整い次第この場所を借りて移動先を告知しますので、

1週間以内とかはお約束できませんが、

guts koporu takkaの拙いblogを楽しみにしてくださっている方は、

いましばらくお待ちください

 

ではまだお正月は続いていますので、

皆さん食べ過ぎに気をつけて、

enjoyしてくださいね!

比較をやめて、自分を生きる 後編

イブの夜にこんばんは!

 

guts koporu takkaです

 

もう日付け変わりましたけどね

 

 

皆さんのところに、

サンタさんはやってきましたか?

 

まだ来ないという人は、

すぐにフィンランド当局にクレームを入れましょう!

 

 

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千田琢哉、人と比べないで生きていけ

 

 

さて、初めての前後編となった今回ですが、

 

前編はこちら

c-b-a-from466.hatenablog.com

 

 

とある転機があって、

このblogを書き始めたころと自分の中身が

かなり入れ替わっっていることに気づいたので、

あと数回書いたらまったく新しいblogを始めようと考えています

 

詳しくはまた後日書きますね

 

まだ数回はこのblogが続きますが、

お付き合いいただければ幸いです

 

 

 

 

 

地球の外から、人生を見る

 

『家庭内別居や別居生活は、結婚を継続させるための新しいスタイルだ

 
私がコンサル時代にお付き合いさせてもらった成功者たちには、
既婚者もいれば独身の人もいた
既婚者の成功者には、
家庭内別居を含めて別居生活をしている人が驚くほどに多かった
 
最初の頃はサラリーマン感覚で、
「いくら成功しても家庭が上手くいっていないなら幸せかどうかは微妙だな」
と単純に思っていた
ところが実際に自宅に招かれたり家族ぐるみの付き合いをしてみたりすると、
別居しているのにとても仲がいいのだ
夫婦というよりも、恋人同士といった表現が適切だった
 
緑が多く子どもの教育環境にもいい土地にちゃんとした一戸建てを持ちながら、
成功者自身は仕事に没頭するために都会のマンションで寝泊まりしている人もいた
月に何度かの割合で家に帰れば、夫婦は新鮮な恋人感覚をいつまでも維持でき、
子供は会うたびに狂喜する
休日になると家に寝転がっている父親より、断然威厳があるというものだ
 
どちらかといえば、こうした生活スタイルを営んでいる夫婦は
知的水準が高い人たちに多かったように思う
夫婦で慰謝と弁護士をしているとか、
夫婦揃って名門大学・名門企業出身であるといったように
 
もちろん本当に深刻な別居生活の場合もあるが、
それは成功者に限らず一般の人でもまったく同じことだ
成功で幸せを失うこともあれば、貧乏で幸せを失うこともある
 
以上のように私は成功者達のプライベートに数多く触れながら、
「かくあるべし」といった昔ながらの理想の家族のあり方は変化していることに気づかされた
人は本能に任せて放っておくと、一夫多妻制になってしまう可能性が高い
本能と社会のルールという狭間で、どうのように生きるのが幸せなのかを
考える時代が到来したのだ
 
古い価値観にとらわれるから不幸になる
幸せな夫婦、家庭の形を自分なりに築きあげろ!』
 
 
まず書いてあることそのものに触れるとすれば、
まったくその通りだなと思います
 
とにかく別居しろとかそういうことではもちろんなくw、
本質的なところです
 
たとえば私はこの数ヶ月間貯えを利用して
かなりマイペースな無職生活を満喫しましたし、
交際期間がかなり短いなかでの妊娠、結婚であった私たち夫婦にとっては、
良い時間ではありました
 
しかし、
決してまだ理想からは遠い現在の雇われ生活にしても、
始めたら無職時代より確実にいいことがひとつあります
 
それは、
お互いにひとりの時間が確保できることです
 
私はわりといつでも好きにやってるので、
むしろ奥さんにとってストレスが軽減されたのではないかと思いますw
 
ストレスとかの問題だけではもちろんありません
ひとりでなにかを考えたり、
ひとりでなにかを感じる時間というのは、
本当に大切なものなのです
 
 
だから、
この千田さんの提唱する夫婦別居生活も、
本質的な意味では
 
ひとりの時間を確保する
 
ということに繋がっていると思います
 
だからお互いに新鮮でいられるし、
それは子どもにとっても同じということですね
 
 
しかし、
私の今回書きたいことはそこではありません
最後の、
 
『 古い価値観にとらわれるから不幸になる 』
 
というあたりに関することです
 
今日ニュースを見ていたら、
政治家の育児休暇に関して、
『親の死に目にも会えないのがこの仕事』
 
だとか、
理解を示さないコメントが、
政治家たちからも、
世論的にも溢れていました
 
ここに書いたのか
facebookのほうに書いたのか定かではありませんが、
私は以前に堀江貴文氏がシェアしていた、
 
1年の修行でミシュランの星を獲得した、
元営業マンたちがシステムを構築した
寿司職人の養成システム
 
に関して言及したことがあります
 
端的に言えば、
10年の修行が必要だとかいうその10年というのは、
要はそれぞれが人生に向き合う時間だと思う
だからその部分は個々に任せるとして、
技術自体は1年あれば獲得できる
 
というのが私の解釈です
これは寿司の世界だけではなく、
あらゆる業界に言えることだと思います
実際結果が出ていますしね
 
ただ、
それを認めない人、
おそらくそれを認めてしまうと都合の悪い人たちが必ずいます
というか恐らく大半の人はそうでしょう
 
上述の政治家の育児休暇の話の場合のように
 
 
 
その人がそれでやってきたことに関しては否定しません
それも正解だと思います
 
ただ、
その時代がそうであっただけで、
もっと言えばその人がそうであっただけで、
それが当り前、
それがすべてであるかのような言い方は、
 
老害でしかないですよね、はっきり言って
 
それでこの世界の進歩はどれだけ遅れているんだろうと思うと、
怒りすらこみ上げてきます
 
 
ワクチンにしても原発にしても、
なくなってしまうと困る人たちによって真実が隠される
 
ではなぜなくなってしまうと困るのか?
 
それは、
人生を俯瞰的な視点で見ることができていないからです
 
俯瞰的に、
もっと抽象的に人生を見ることができれば、
 
いま自分が働いている仕事をクビになったり、
職を失ったりすることは、
自分の人生にとってなんのダメージでもないことが理解できるはずです
 
会社や仕事なんて、
ゲームでしかないんだから
 
仕事を舐めるとかそういうことではなく、
実際会社というのは実体がなく、
 
それ自体はゲームのようなものです
本気で自分の人生を考えたら、
子どもの成長を見たりするほうがよっぽど大切
 
現実として、
仕事しか見えず生きてきた人は、
 
自分の人生ってなんだったんだろう
 
ってことになりがちです
 
 
自分の人生を俯瞰的に見ることができていれば、
たとえば突然勤めている会社が倒産したって、
ちょっと路頭に迷うくらいのことで、
自分の人生になんら問題はないことがわかるはずです
 
しかしその会社や仕事が自分のすべてのように思ってしまう人は、
そこにしがみつくし、
都合の悪い事実は徹底的に隠すし、
あまつさえ存在を消そうとするわけです
 
最近ではフリーエネルギーがようやく日の目を見ようとしていますが、
いったいどれだけ昔から存在していたのでしょう
どれだけ世界の進歩は遅れていたのだろう
一部の、悪意のおかげで‥
 
一度、
人生が壊れてしまう事態を経験すれば、
少しは理解に近づくのかもしれませんね
 
 
と、まあ不満めいたことを言っても仕方がないのでまとめますが、
人生に俯瞰的な視点を持つことの大切さが少しは伝わったでしょうか
 
私はいまのホテルの仕事でも学びたいことがあり、
決して舐めてはいません
 
しかしアルバイトの仕事を選んだのは
ネットビジネスを勉強するためだってことを忘れたら元も子もありません
 
なので、
極端に言えばこの仕事を失っても屁でもないわけです
もちろん、テキトーになんてやらないですけどね
 
ただ、思いっきり肩の力は抜いてやってますよ
皆さんと同じように、
生活はかかってますけどね
 
人生を俯瞰的に見る
 
宇宙空間から見てるくらいの気持ちで、
ちょうど良いかもしれませんね!
 
 
 
 
なんだか今回はこれですべて語り終えた感じがするのでw、
ワンテーマで終えます
 
以下に読書ノートの残りを貼りますので、
集中力が続く方はどうぞ

 

 

 

 

 

 

『交渉術を磨くのは、完勝するためではなくちょい負けしてあげるため

 
少し前にブームになった交渉術というのは、
10年以上前に私がコンサル会社に勤務していた頃から
上司や先輩に徹底的に叩き込まれ続けた
若輩コンサルタントたちが、自分の親の世代の百戦錬磨の経営者たちと
仕事をしなければならないのだから当たり前といえば当たり前だ
 
今思い出せばまるで詐欺ではないかと思えるような交渉術まで伝授されたが、
私が向かうところ敵なしと天狗になっていた頃にふとあることに気づいた
このまま相手を論破し続けていれば、いずれ孤立無援になるということだった
中には本当に孤立無援になってしまったコンサルタントもいて、同情したものだ
 
交渉術を磨くのは相手を完膚なきまでに打ちのめすためではなくて、
ばれないようにちょい負けしてあげるためなのだ
 
交渉術を磨いていくと、座った瞬間に相手の力量が予測できるようになる
1分も話をすれば、相手にこのとどめのひと言を刺せば
再起不能になることまで鮮明にイメージできる
だからこそ、余裕を持って相手の話を傾聴できるのだ
ちゃんと傾聴して、どこで相手を立ててあげるのかというポイントを探すのだ
 
別れ際に、相手に「意外にチョロかった」「勝った」と思わせることができれば、
その後は完全にコントロールできる
ただし、相手にばれないようにちょい負けしてあげるためには、
相手の10倍の実力が求められる
だから日々の勉強が不可欠なのだ
 
一番いいのは交渉の達人と一緒に仕事をさせてもらうことだが、
本やセミナーでも初歩は習得できる
大切なのはやはり実践だ
別の著者が書いた交渉術の本を3冊熟読し、実際にどんどん交渉してみよう
大切なことは、1人交渉するたびにきちんと分析と反省を行うことだ
 
「向かうところ敵なし」ではなく、
「向かうところ味方あり」の交渉術を身につけろ!』
 
 
『貧しい幸せもあるが、せっかくなら豊かな幸せのほうが断然いい
 
「お金があるから幸せとは限らない」
「お金がなくても幸せな人はたくさんいる」
そうした正論を吐きながら、自分に酔っている人がいる
正論は成功者が言っても、敗北者が言っても、
社長が言っても、新米が言っても、
それはもう正しいと決まっているのだから、退屈極まりない
正論を吐いてウットリした瞬間、そこで成長がストップしてしまうのだ
 
もしあなたが本物の幸せを獲得したいなら、
正論や美辞麗句には必ず裏があることを知っておくことだ
正論や美辞麗句を並べ立てることによって、必ず誰かが得をするようになっているのだ
正論や美辞麗句のシャワーを浴びせることにより、
大衆をコントロールしている人間がいるのだ
 
だから正論や美辞麗句に遭遇したら、いつも一歩踏み込んで考える癖をつけることだ
「お金があるから幸せとは限らない」からといって、
「お金があると不幸になる」ということにはならない
「お金がなくても幸せな人はたくさんいる」からといって、
「お金がないほうが幸せだ」ということにはならない
 
確かに貧しい幸せだってあるかもしれないが、せっかくなら豊かな幸せのほうが断然いい
貧しい幸せと豊かな幸せを両方経験すれば誰でも気づくが、貧しい幸せというのは偽物だ
それは豊かな幸せを享受している一部の人々が、
「貧しい幸せもあるよ」というデマを流すことによって、
大衆を大人しくさせるために洗脳しているのだ
 
ブラック企業のカリスマ経営者が、「仕事はお金よりやりがいだ!」と連呼して、
身も心もボロボロになった社員たちをさらに洗脳するのとまさに同じだ
数では圧倒的に多い奴隷たちに、
謀反を起こされないようにする作戦なのだ
 
正論や美辞麗句を信じすぎるな!
カリスマたちの言葉の裏を読む習慣をつけろ!』
 
 
生涯賃金を稼ぎ終えると、人生すべてにおいて主導権を握れる
 
コンサル時代に多くのお金持ちから私が教わった教訓の1つに、
生涯賃金を早めに稼いでしまいなさい」というものがあった
大学時代に貪り読んだ数々の成功本にも同じことが書かれていたから、
これは真理だとストンと腑に落ちた
 
自由にも幸せにもいろいろあるが、心の底から本物の幸せを享受できるのは、
ごく平均的なサラリーマンの生涯賃金を稼ぎ終えてからというのは本当だ
サラリーマンの生涯賃金を稼ぐなんて、
何か物凄い話のようだがあなたがその気になれば意外に稼げるものだ
 
最初から2億円払えばいいところを、
生かさず殺さず約40年にわたって小刻みに毎月数十万円程度ずつ払い続ける
仮に寿命の約半分である40年を会社に捧げて2億円稼いでも、
住宅ローンや子どもの教育費、生活費でその大半がぶっ飛んでいく
それは40年かけて2億円稼ぐものだとあなたが洗脳されているからであって、
絶対にそうしなければならないということではない
 
もし今すぐあなたの通帳に2億円が振り込まれたとしたら、
あなたは今の会社にしがみつくだろうか
本当はもっと自分が好きなことを好きな時間にやりたいのではないだろうか
 
想像するだけでワクワクしたという人は、本物の自由を獲得するセンスがある
独立して成功すれば数年で2億円なんて稼ぎ終えることができる
独立なんて勇気がなくてできやしないという人だって、
会社にいながらにして副業で2億円稼ぎ終えることができる
完全歩合制の世界や外資系の超エリートサラリーマンとして活躍すれば、
2億円稼ぎ終えるのも早いだろう
 
今の時代2億円稼ぐ方法なんてそこら中に転がっており、
実践者本人が書籍やセミナーでノウハウをガンガン公開してくれている
ここだけの話、実践しない人はアホではないかと思えるくらいだ
 
本物の自由や幸せは、2億円稼いだその先にある!』
 
 
『「戸建てかマンションか」ではなく、「戸建てもマンションも」楽しむ
 
「戸建てかマンションか」で熱く議論を交わす人は多い
確かにサラリーマンにとって戸建てかマンションかは一生の問題であり、
つい熱くなるのはわかる
私は現在そのどちらも楽しんでいるが、絶対の正解など存在しない
戸建ては戸建てでいいところがあるし、
マンションはマンションでいいところがあるからだ
互いのメリットとデメリットは無限に出てくるが、そんなバカバカしいことはしない
両方楽しんで味わってしまえばいいだけの話だからだ
 
「戸建てかマンションか」に限らず、
不自由な人の発想はすべてが対立や比較に持ち込まれて疲れてしまう
A or Bという対立だといつまで経っても自由にはなれない
A or Bという発想は、まさに戦争そのものなのだ
 
自由になれる人はA and Bという発想をする
二者択一で争う貧しい発想ではなく、どちらも頂戴してしまおうという豊かな発想だ
「二兎を追うものは一兎をも得ず」という諺があるが、
現実社会は「二兎を追うものは三兎も四兎も得る」ことも多い
否、正確には一兎しか追わなければそれを逃した瞬間、何も手もとに残らないのだ
二兎追って獲得しておけば一兎逃しても一兎は手もとに残る可能性もある
 
もちろんA or Bで決めなければならないこともたくさんあるが、
もしA or Bで行き詰まったら、A and Bという選択肢も加えてみてはどうか
私の経験上、一兎追うのと二兎追うのとで労力にそれほど差がない
それどころか、二兎追うのは夢があってムチャクチャ楽しい
冒頭の例でいくと、戸建てもマンションも獲得しようと思えば仕事も頑張れる
たとえ失敗しても、二兎追うことにより知恵と行動力を獲得できるのだ
 
二兎を追うから人生が楽しくなる
「AもBも欲しい」と胸を張って宣言しよう!』
 
 
『「楽をして成功しようと考えてはいけない」は、嘘
 
あなたが1日も早く仕事をマスターしたければ、楽をすることを考えなければならない
いかに楽をするかを考えるのが、仕事なのだ
「楽をして成功しようと考えてはいけない」は、真っ赤な嘘なのだ
 
成功者には苦労人が多いと言われるが、
それは常に楽をしようと工夫を凝らし続けたために何度も挫折してきたからだ
決して最初から苦労そのものを狙っていたわけではないのだ
ここを勘違いしてはいけない
産業革命もいかに楽をするかというエネルギーの塊から成し遂げられたのだ
 
私の周囲の成功者には、揃いも揃って怠け者が多い
今回初めて告白するが、私も生来の怠け者だ
常軌を逸するほどの怠け者だからこそ、そこに知恵が宿るのだ
 
何とかして怠け者のままで他人より稼ぐ方法はないか
何とかして怠け者のままで他人より睡眠時間を確保する方法はないか
何とかして怠け者のままで他人より偉くなれる方法はない
笑い事ではなく、真剣にそれらを考え続け試行錯誤してきた人が成功しているのだ
 
もちろん怠け者のまま何も考えず、何も行動しなければ、本当にただのニートで終わってしまう
成功者は怠け者のまま自由と幸せを獲得するために、猛烈に働くという矛盾をやってのけるのだ
これがニートと成功者の決定的に違うところだ
 
心配せずとも、人は誰もが本来怠け者だ
怠け者というのは、欠点ではなく才能なのだ
より怠けるために、より知恵を絞って働くという相矛盾するものを一体化した瞬間、
あなたに奇跡が起こる
誰にも遠慮せず、どんどん楽する方法を考えて試してみよう
 
怠け者は、欠点ではなく、才能だ
その才能に磨きをかけた人間が成功者になる!』
 
 
『ダメな自分を、許す
 
何だかんだ言いながら、最終的に自由と幸せを決めるのは、もちろんあなた自身だ
正確にはあなたの考え方である
あなたの頭の中にこそ、自由と幸せが存在するのだ
 
こうして本を読んだり、
人と語り合ったりしながらも、
どんな人生を歩んでいくのかは100%自分自身で決めるしかない
そこで今回私が伝えたいのは、「許す」という必殺技だ
 
他人を許す前に、まず自分を許すことだ
自分を許していない人間に、他人を許すことなんてできやしないのだ
 
勇気を持って、ダメな自分を許すことだ
本を読んでも何も動かない自分を、許す
今日やることを明日に延ばしてしまった自分を、許す
ダメだとわかっていながらつい陰口を言ってしまった自分を、許す
ダイエット中なのに夜食を食べてしまった自分を、許す
禁煙中なのにまたタバコを吸ってしまった自分を、許す
つい浮気をしてしまった自分を、許す
 
こうしてダメな自分を許していくと、ある不思議なことが起こる
落ち込んでうなだれていた自分が、みるみる元気になってくるのだ
これは真面目な人こそ、騙されたと思ってぜひ一度やってみる価値はある
 
誰もいない密室で鏡に向かい、
「〇〇した自分を許す」と声に出して言うのだ
間違っても洗面所の鏡に向かって、
「浮気した自分を許す」と奥さんに聞こえるように言ってはならない
 
注意点としては、鏡に映った自分に真剣に敬意を払って言うことだ
恥ずかしがって笑ってはいけない
開き直るのとは違い、罪悪感を乗り越えた勇気を獲得することができるだろう
同時に自分を許すことによって、課題が自然に解決されるようになる
 
あなたの自由と幸せは、あなたの許す力に比例していくのだ
 
鏡に映った自分に向かって、真剣に「許す!」と言ってやれ!』
 
 
『すべての扉が閉ざされた次の瞬間、まったく新しい扉が開く
 
人と比べない人生を送っている成功者たちは、口を揃えてこう教えてくれた
「すべての扉が閉ざされた次の瞬間、まったく新しい扉が開いた」
 
人と比べないで自由にのびのびと生きている人たちは、
とことん人と比べて行き詰まった人たちだったのだ
人と比べないで幸せな人生を満喫している人たちは、
人と比べて負け続けても腐らなかった人たちだったのだ
 
予め本や人からそうした事実を教わっていた私にも、
すべての扉が閉ざされるような出来事がこれまで何度も起こった
そのたびに、私の心は期待に胸を膨らませた
「今度はいったいどんな扉が開くのだろう……」
 
ドキドキしながら新しい扉に近づいてみた
興奮に震える手で扉を開いてみた
扉の中に飛び込んで、一歩踏み出してみた
 
歩き始めてしばらくすると、
今この瞬間のために今までの人生があったという事実が一点の曇りもなく理解できた
理屈ではなく、心で理解できた
 
進学も、就職も、転職も、独立も、
そして今日に至るまで人と比べない人生は、日に日にエスカレートしている
人と比べない人生がエスカレートするたびに、享受できる幸せも大きくなっている
 
人生の仕組みのようなものがぼんやりと見えてくる
すべての扉が閉ざされると、一瞬暗くなった気がする
だがそれは暗闇が始まったのではない
これから新しい光が射すために、一瞬暗くなっただけなのだ
 
あなたはこの人生の仕組みを予め知っておくと、暗闇が待ち遠しくなるだろう
すべての扉が閉じる前にあなたが逃げさえしなければ、
次の扉が開くのだから』
 
 
ではまた次回、
お会いしましょう!

比較をやめて、自分を生きる 前編

こんばんは!

 

guts koporu takkaです

 

今日はこれから4時少し前のJRに乗って神戸に行くので、

頑張って起きています

奥さんはお弁当をつくるため、

もっと頑張って起きてくれています

ありがとう!

 

私がネットビジネスを勉強するきっかけになった人や、

いろんな会いたかった人に会うために

神戸は三宮で開催される忘年会に参加するのですが、

いやはやジェットコースターのような毎日です

 

無理せず、

しかし楽しんできたいと思います

 

 

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千田琢哉、人と比べないで生きていけ

 

 

 

 

人の繋がりを断捨離する

 

『ありのままの自分から目を背けたいから、他人の噂話に終止するのだ

 
他人の噂話が好きな人は、比較するのが好きな人だ
なぜ他人の噂話をしたがるかといえば、
ありのままの自分を受容できていないからだ
噂話に終始していれば、ありのままの自分の醜さから目を背けられるからだ
 
自分のコンプレックスを埋め合わせるために、
その場にいない誰かを取り上げ生贄にしてヒソヒソ話をする
少なくともその場では、自分のコンプレックスを忘れたふりができる
 
これまで1万人以上のビジネスパーソンたちと対話してきた結果、
断言できることだが、
人は自分のコンプレックスをテーマにして盛り上がりたがるものだ
容姿にコンプレックスのある人は、
他人の容姿について話題にしたがる傾向が強い
頭脳にコンプレックスがある人は、他人の頭脳について話題にしたがる傾向が強い
お金にコンプレックスがある人は、
他人のお金について話題にしたがる傾向が強い
だから自分から話したがる人は、
その人が何についてコンプレックスを持っているかがわかりやすい
 
これはあなたにも簡単に確認できる方法がある
平日のカフェで騒いでいるオバサン3人組の隣に座って耳を傾けてみよう
たいていはその場にいない誰かの噂話や痴話が多いはずだ
それだけ自分の愛情や性欲が満たされていない証拠なのだ
人は自分に欠けているものについて、とことん盛り上がりたくなる生き物なのだ
 
翻って、あなたはどうだろうか
せっかく奇跡的に授かった命を、
このまま他人の噂話で消耗し続けてもいいのだろうか
どうせなら、噂する側よりされる側のほうがずっといい
比較する傍観者より、比較される主人公として人生を熱く生きよう
 
噂話をする人間ではなく、噂話をされる人間になれ!』
 
 
最近働き始めたホテルの話ですが、
ほんとに‥
 
噂話が好きな人たちが多いですw
 
たしかにナイトのフロント業務なので、
私語で埋めたくなる時間は少なくはありません
私もまずはコミュニケーションを図ろうという目的と、
あとは自分のだらしなさでそこに加わっていることはあるので
そのへんは何も言えません
 
ただ、
お客さんがロビーにいるのに平気で喋っちゃうのはなあ‥
とは思います
あんまりいい感じはしないですよね、
お客さんの側からしたら
 
そして、
上の千田さんの文章にあるように、
なるほど、これがこの人のコンプレックスなんだな、
という感じで誰か(他の従業員)のなにかをネタにして喋る
 
要は、その〝なにか〟がそのままその人のコンプレックスなんですね
 
そして入ったばかりの頃、
子どもの話をしていたら、
ある先輩が
 
「結婚したのはいつですか?」
 
と聞いてきました
 
この時点でなぜそれを聞くのかすぐわかったのですが、
普通に答えると、
もうひとりのかなり歳上の社員の方が、
 
 
と言いました
閉口ですね
 
いまではそれなりにそれぞれの人間性も見えてきて、
問題ないレベルではコミュニケーションしていますが、
そのときは
 
ほんとに嫌だなあ、この人たち‥
 
と思いましたよ
 
 
誰しもいろんな側面があって、
完璧な人なんていないので、
半月経ったいまは別にその人たちが嫌いというわけでもありません
 
でも、好きでもないですけどねw
 
雇われの身でいるうちは人間関係を完全に選ぶことは不可能ですが、
最近facebook上で大きな断捨離をしました
 
四百数十人の人たちと繋がらせていただいていましたが、
ことわりの投稿をしたうえで、
およそ半分に人数を減らしました
 
皆さんひとりひとりは魅力的な人たちでしたが、
正直関係性の薄い人たちが増え過ぎたからです
 
それは意識の分散も招き、
自分がいまなにをしたいのか、
誰を観るべきなのか、
というものを散らかしてしまいます
 
なので、
人数を減らす、
断捨離をしたわけです
 
〝人間関係を自分でデザインしていく〟
 
ためには、
いろんなステップが待っているようですね!

 

 

 

 

投資の額とお金の循環

 

『自分が幸せを感じる環境の構築には、お金と時間をケチらない

 
「成功したければ自己投資しなさい」
こうした巷の教えはもう十分に浸透してきたように思う
では具体的には何に自己投資すればいいかとなれば、
それは本や映画であったり、セミナーや情報商材であったりと、内容はバラバラになる
 
何のことはない、「自己投資しなさい」と強調する先生たちというのは、
自分のサービスを受けて私をお金持ちにしなさいと言っているのだ
 
もちろんここで私は本や映画、セミナーや情報商材を批判したいのではない
現に私は本の著者だし、講演もする
 
自分の内面に投資すればするほど自分の付加価値は向上する傾向にあるから、
それだけ成功しやすいのは誰が考えても納得できるだろう
あなたが自分で納得して自己啓発にたっぷりお金を投資しているのであれば、
ぜひ引き続き成長してもらいたい
 
だが自己投資をかなりしているのにもかかわらず、
思ったような効果が出ていないという人は意外に多い
あるいは、今より自己投資のリターンを大きくしたいと思っている人は多い
 
そんな人にオススメなのが、幸せを感じる環境の構築に投資することだ
「一流の人間は才能によるものか、環境によるものか?」
といった議論がなされるが、
才能は変えられなくても環境はお金と時間をかければ変えられる
私自身もこれまでで一番大きな自己投資といえば、勝ちやすい環境の構築だった
 
コンサル時代は終電を気にしないで仕事に没頭できるようにと、
オフィスから自転車で1分の場所に住んでいた
都会で多少家賃は高かったが、通勤電車で消耗する体力や時間を大幅にカットした結果、
健康的に年収も急上昇したからいい投資だった
 
独立してからは執筆に没頭できるためと目を酷使して視力が低下しないように、
緑が多くて景色のいい高層マンションに書斎を構えた
その結果、今ここにいる
環境への投資は決して安くはないが、リターンは果てしなく大きい
 
才能は変えられなくても、環境は変えられる
勝ちやすい環境づくりに投資しろ!』
 
 
ここで、
いつか整理したいと思っていたので、
私が〝投資〟というものを意識し始めた頃からの
投資額を計算してみましょう
 
まず、
数年間ひたすら本を読み漁ったり、
ここには書けないあれやこれに費やした額
約150万円
 
そこから13ヶ月間で、
仕事や自分の体験や、
なんやかやに費やした額
160万円
 
同様に、
そこから8ヶ月間で、
160万円
 
ネットビジネスを勉強するためのオンラインスクールへの参加費
25万円
 
それに関係する交通費など
15万円
 
超が付く単純計算ですが、
ここまででざっと510万円です
 
 
なぜこういう金額をいま出したのか
 
それは、
 
〝投資と見極めて投じたお金は大きくなって還ってくる〟
 
という法則があり、
これは実体験から保証できます
 
そして、
その〝循環するパイプ〟は太くなっていきます
 
トータルの投資額だけ見たら大きな数字ですが、
最後のほうのオンラインスクールの25万円が
いちどに投じたいちばん大きな投資で、
そこまでは大きくても10万円前後です
 
いきなり100万円投資しろと言われても
いろんな意味で無理ですが、
少しずつ投資をして体験を積み重ねていくことによって、
少しずつ大きな投資ができるようになっていきます
 
それは手持ちが増えるというよりも、
気持ちの面で可能になっていくということです
 
そして、
パイプを広げるためには投じる額を大きくしていく必要があります
 
 
このへんは、
ただ大きなお金を使えばいいということでもないので、
それは少しずつステップを踏んで実感を伴わせながら
学んでいくしかありませんが、
パイプが大きくなれば当然循環していく額も大きくなっていきます
 
私もいま現在大きな実績があるわけでもないので
いまいち説得力に欠けるかもしれませんが、
いま説明したことに関しては
 
1000円の投資が5000円になって還ってくる
 
というレベルから神経をチリチリさせて
実体験してきたので、
間違いないと言えます
 
 
また、最後の〝交通費など〟に関してですが、
今回の神戸行きも含んだものです
 
なぜ交通費?と思うかもしれません
 
それは、
〝自分がこういうふうになりたいと思う人に実際に会いに行く〟
 
のがいちばん得られるものが多いからです
 
私はいま函館に住んでいて、
そうそう神戸とか行けませんw
 
今回はどうしても行ったほうがいいと
私の妖怪アンテナが騒いだのでちょっと頑張って行ってきますが、
基本的にはオンラインスクールを通じて学ばせてもらおうと思っています
 
与えられた条件でやる
 
というのもとても大切なことです
 
ただ、
やっぱり会いに行くのがいちばん濃いんですよ
一次情報が溢れていますからね
それは当然です

 

では、もう少しで移動の時間がやって来ます

肩の力を抜いて、楽しんできますね!

 

 

以下に、読書ノートの残りを貼っておきます

集中力が続く方は、どうぞ

 

 

 

『本当に好きなことをやっている人は、比べない

 
あなたが「英語の勉強をやっています」と言うと、
必ずこんな質問をする人が登場する
TOEIC何点?」
「英検何級?」
 
その人は英語に興味のない人か、
自分が好きなことをやって生きていない人だ
数値を聞き出したら聞き出したで、今度はこんなことを言ってくる
TOEIC990点の人もいるみたいだね」
「私の知人の〇〇さんは、英検1級を持っているのよ」
 
他人を持ち出してまで、何から何まで比べたがるのだ
結果として相手をウンザリさせてしまい、嫌われる
嫌われていることにすら気づかずに、人もお金も去っていく
 
英語の勉強をしていなくても、
自分が好きなことをやって生きている人はこう質問してくる
「最近駅前の英会話教室が賑わっているみたいだね
英語の勉強って、どんなところが面白いの?」
「私はウエイトトレーニングをしているのですが、
英語の勉強ってどこか筋トレに似ている感じがします」
 
本当に自分が好きなことをやって生きている人は、比べるのではなく、
共通点や根っこにある本質を一緒に語りたがるのだ
 
もちろん、ここで私は英語学習やウエイトトレーニングについて語りたいのではない
茶道でも、鉄道模型でも、カラオケでも、小物作りでも、
すべてにおいて本当に好きなことに打ち込んでいる人は、
最初から比べる話をしないということだ
 
翻って、あなたはどうだろうか
本当は好きでもないことを嫌々やっているから、
つい誰かと比べてはいないだろうか
つい比べてしまう自分がいたら、
「好きなことをやっていないな」と省みよう
 
毎日が苦しいのは、何でも比べようとするから
好きなことをすれば、比べなくなる!』
 
 
『つい比べる自分も、許してあげる
 
これまで述べてきた内容と矛盾するようだが、
人と比較するのは本能でもあることは否定できない
人と比較することによって、途中経過では成長できることだってあるし、
何より気になってしまうものは仕方がない
 
だからつい比較してしまったとしても、いちいち罪悪感を持たなくていい
「あら、またやっちゃった」くらいの軽い気持ちで、
つい比べてしまった自分を許してあげることだ
つい比べてしまう自分も、自分なのだということを認めてあげることだ
つい比べてしまう自分も含めて、自分なのだと理解することだ
 
つい比べてしまう自分を許さないと、
こんな困ったことが起こってしまうから要注意だ
「私はあの人と比べ、他人と比較するのが好きなダメ人間だ」と自分を責める
「いかに自分は比較しない人間でいられるか」で、他人と比較してしまうのだ
これでは本末転倒だ
 
基本はできるだけ人と比較しなくてもいいように、淡々と生きていく
その上でつい比較してしまったとしても、そんな自分を許してあげる
この繰り返しでいい
すでにお気づきのように、他人と比較しない生き方をするためには、
まず自分を許してあげることが不可欠なのだ
 
自分を許せない人は、自分が完璧であることを求めてしまう
自分が完璧であることを求める人は、他人にも完璧を求めやすい
 
完璧を求めること、そこには必ず比較が生まれる
「私はあの人に比べて完璧ではない」
「あの人は私に比べて完璧ではない」
 
これでは負のスパイラルに巻き込まれて、無間地獄に突入だ
負のスパイラル人生を断ち切るためには、重く考えずに軽く考えることだ
軽く考えたほうが長続きするし、結果として思いが実現しやすくなる
 
完璧な人間など存在しない
完璧でない自分を許して楽に生きよう!』
 
 
『究極は、あなたの思い込みと市場を一致させることだ
 
仕事の何が辛いかといって、
市場に忠実に基づいたサービスを提供しなければならないことだ
市場に基づいたサービスを提供するのは、当たり前といえば当たり前だ
だが世の中にはそうでない人だっていることも知っておいたほうがいい
世の中の動向など無視して、
自分の思い込みを発信するだけで市場が連動する人もいるのだ
 
偉大な芸術家や作家にそうした人が見られるが、規模やレベルを問わなければ
自分の思い込みと市場を一致させている人や会社は意外に多い
頑固な職人さんやごく一部のマニア向けの商品を扱っている会社では、
市場に媚びず自分が本心からいいと思ったサービスを提供し続けている
それでも信者が一定数いれば、商売は立派に成立するのだ
 
商品単価やサービス内容にもよるが、数十人から数百人の信者がいれば
食べていくには困らないビジネスも展開可能だ
数千人や数万人の信者がいれば、もはやお金持ちの仲間入りも夢ではない
 
たとえば本を出す度に1万人の信者が購入するという作家がいたとしよう
仮に本が1冊売れたら印税が100円とすると、1万冊で100万円になる
1年間で5冊出せば年収500万円で十分に食べていける
1年間で10冊出せば年収1000万円でエリートサラリーマンと互角だ
 
本は単価が安くて大変そうだという人は、情報商材を扱ったと想定してみよう
情報商材を1セット5万円とすれば、100人の信者に売れば500万円の売上になる
年間で2種類の情報商材を開発して販売すれば、それだけで1000万円になる
 
「理論上は確かにそうだけど……」とバカにしてはいけない
現に本の印税や情報商材で数千万円や数億円稼いでいる人が複数実在するのだ
あなたが本の著者になったり情報商材を売ったりする必要はまったくない
今、目の前の仕事であなたの信念に賛同してくれる信者をつくっていけばいい
 
自分の思い込みと市場を一致させた人生は、まさに毎日が天国なのだ
 
市場に合わせることに汲々とするな!
自分の〝信者〟を増やすことを考えろ!』
 
 
『持っている人は、自分から持っているとは言わない
 
本当に幸せな家庭を築いている人は、自分から家庭の話はしない
本当に育ちのいい人は、自分から家柄の話はしない
本当の美人は、自分から容姿の話はしない
これが持てる者の大原則だ
これに対して持たざる者は、
自分が持っていないものに対して熱く語りたがる人が多い
 
家庭の話をやたらしたがる人は、家庭が上手くいっていない証拠だ
もしくは仕事や社会的地位では負けるから、
なかなか実態のわかりにくい家庭という土俵に持ち込んで
優位に立ちたがるいやらしい人もいる
 
土地や株で一攫千金を手にした筋金入りの成金たちのご子息・ご令嬢の中には、
かなりの割合でいかに自分に力があるのかを誇示したがる人が多かった
ところがその実態としては、お客様はおろか従業員にさえ尊敬されておらず、
「本当に運だけの成金」「周囲にもっとお裾分けして当然」と見下されていた
ご子息もご令嬢も、本当は自分に実力なんてないことは百も承知で、
その自信のなさからつい虚勢を張ってしまうのだが、
周囲にそれがばれていたのだ
 
女性で美貌を獲得できなかった人は、
物心ついてから自分は美人ではないことを薄々気づき始めている
周囲の容姿に恵まれた子が
「綺麗ね」「また美人になったね」と褒められるのに、
自分は「賢そうな子ね」「また大きくなったね」としか言われない
こうした周囲からの悪気ない言葉のシャワーは、女性の人格を形成していく
周囲が美人を見る目と自分を見る目が違うことにも気づき、性格も歪みやすい
女性なら誰でも美しいと言われたい本能があるから、
つい厚化粧したり奇抜なファッションをしたりして、自分の容姿を強調したがる
会話も容姿の話題が中心になり、自分より容姿に力を入れない同性を見下す
 
本気で持たざる者から持てる者へと脱皮したいなら、
コンプレックスを口から発散させないで、
粛々と成すべきことを成して成長し続けることだ
 
熱く語るのは持っていない証
言葉を飲み込んで行動しよう!』
 
 
『「あそこの家は成金」と批判しているうちに、貧乏のまま終わってしまう
 
成金は昔から嫉妬の対象で、よく批判される
人はもともと自分と同じレベルだと思っていた相手が、
今いる群れから抜け出して出世するのを心から喜べない生き物だ
心の底では大なり小なり「この野郎!」と思っている
唯一、心から祝福できるのは先に成功した人間だけだ
 
一代で財を成した人を成金と呼ぶとすれば、現在の成功者の大半は成金になるわけだ
成金を批判するということは、成功者を批判するということだ
「成金」という言葉の響きはこれまた陰口にはもってこいで、
口にしやすいのはよくわかるが、
自分より目上の相手を批判している自覚は持っておいたほうがいいだろう
責任を問われない凡人同士の陰口では「成金」で通じても、
一歩外に出てみると、現実社会では成金は正真正銘の成功者である
 
「あそこの家は成金」と批判していると、批判する表情が顔に刻まれて醜くなる
いつもヒソヒソ話している人は、いかにもヒソヒソ話しそうな表情をしている
嫉妬深い人は、いかにも嫉妬深そうな表情をしている
 
表情というのはとても正直で、
その人が普段から最も頻繁にする表情のシワが刻み込まれているのだ
 
だから職業によって顔がどこか似ているというのは本当だ
医者は、いかにも医者らしい顔をしている
法律家は、いかにも法律家らしい顔をしている
チンピラは、いかにもチンピラらしい顔をしている
どんな顔になりたいのかは、あなたが普段からどんな表情の筋トレをしているかで決まるのだ
 
艶があって豊かそうな顔をした人には、ますます人とお金が集まってくる
カサカサして根性悪そうな顔をした人からは、ますます人とお金が去っていく
シンプルだけど、それだけの話なのだ
 
批判と嫉妬には要注意
人とお金が去っていく表情の筋トレだ!』
 
 
『政治・宗教・野球・学歴・年収の話は、自分からしない
 
人間関係が苦手そうな人の会話はとてもわかりやすい
初対面の相手にもすぐに比較の話題を持ち込みたがるからだ
 
政治の話題は、人それぞれの考えが違うからしないことだ
宗教の話題は、人それぞれの信条が違うからしないことだ
野球の話題は、人それぞれ贔屓にしているチームが違うからしないことだ
学歴の話題は、人それぞれ序列が違うからしないことだ
年収の話題は、露骨に人間の価値に触れるからしないことだ
 
政治・宗教・野球・学歴・年収の話題は、タブーだ
私も政治・宗教・野球・学歴・年収について本を書くこともあるし、
ブログで触れることもあるが、それは仕事で
「千田さんはこれについてどう考えますか?」と依頼された場合のみだ
 
一時期お金や年収の本を立て続けに出したのも、ブログ上で頻繁に綴ったのも、
そうした質問や仕事の依頼を受けたからだ
出版社はそれだけ読者がタブーについて知りたがっていると分析した証拠だし、
現に私のもとに届くメールもタブーに関する質問が多い
 
タブーというのは国によって異なるが、
いずれにせよその国の国民が興味津々なことばかりだ
興味津々でとても大切なことだからわざわざタブーになっているのであって、
どうでもいいことならタブーになんてならない
 
その証拠にタブーについて論じると、そこには人もお金も集まってくる
テレビでタブーを論じれば視聴率が跳ね上がり、本でタブーを論じれば売上が上がる
 
テレビや本といった受け手と間接的な伝達手法でタブーを論じるならまだしも、
目の前にいる受け手と直接タブーについて熱く論じるのは危険だ
最悪の場合は、世界中で起こっているような殺人沙汰に発展しかねない
自分から比べる話題をふらないだけで、会話は和やかになるものだ
 
タブーの話題で盛り上がれるのは一瞬だけ
自ら進んで地雷を踏むな!』
 
 
ではまた次回、
お会いしましょう!

日本のシステムの根幹を揺らすためには、選挙しか方法はないの?

こんにちは!

 

guts koporu takkaです

 

1週に一度は最低書く、

と言いながら今日がその1週経つ日だと気づき、

慌てて書いていますw

 

人様の素晴らしいblogを読ませていただきましたので、

これを今回の勉強とさせていただこうと思います

 

 

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大村大次郎、搾取され続けている日本人に告ぐ 税金を払う奴はバカ!

 

 

夜勤のホテルフロントにもだいぶ慣れてきたのですが、

ちょっと疲れが溜まっていたのか、

昨日の夜からさっきまで12時間くらい寝ていました

高校生か!って感じですよねw

 

まあ、それは別にいいのですが、

こうしてギリギリで事に気づいてるあたり、

まだまだだなあ、

と思います

 

 

 

 

税金を払う奴はどうしてバカなの?

 

『「税金を払う奴はバカ!」

というタイトルには、二つの意味が込められている
一つには、
今の日本で税金を払っても、全然、国や社会のためにはならない
それどころか、税金を払えば払うほど国が悪くなっていく
どういうことかというと、今の日本の税制や財政は、矛盾の極地に行き着いていて、
ごく一部のものだけがいい思いをし、大勢の人を苦しめるばかりのものになっている
考えてもみてほしい
少子高齢化問題にしろ、これはある日突然やってきたものではない
何十年も前から、このままいけば少子高齢化になることがわかっていたのである
しかし政治家や役人は、将来の危険が明白にわかっていながら、
自分たちの既得権を守るためだけに終始し、国の欠陥を修正したり、
将来の不安に備えたりすることをまったくしてこなかったのである
現在の日本が、そういう国家システムになっている以上、
この国に税金を納めても何にもならない
 
「税金を払う奴はバカ」のもう一つの意味は、
税金を黙って払っている人たちは税金のことをまったく知ろうとせず、
節税策をまったく講じていないという事実がある
サラリーマンであっても、税金を減らす方法はいくらでもある
それをせずに、生活が苦しい、苦しいとばかり言っているのである
また税金に関して無知な人は、税金の使われ方にも、あまり関知しない
だから、政治家や役人は、彼らのことをナメきってやりたい放題にやってきたのである
彼らが黙って文句も言わず、税金を払ってきたことが、政治家や役人を増長させたのである
つまり、彼ら国民も今の国家システムを間接的につくってきたと言える』
 
 
私は、
函館の〝西部地区〟と言われる地域に住んでいます
 
観光名所が多く、静かで良いところです
 
しかし、ここに住んだ元々の目的は、
子どもが生まれるにあたり、
 
〝ヤングファミリーなんとか〟
 
という助成金が目的でした
 
しかし子どもが生まれいざ手続きに行ってみると、
異常に手続きが煩雑
 
必要な書類なのはわかるけど、
なんのサービス精神もなく、
その煩雑さを見ただけで、
 
「仕事ができない人たちなんだろうなあ」
 
と思ったのを覚えています
 
 
そして、極めつけは
 
〝税金を一切滞納していない証明書〟
 
が必要ということ
 
なるほど、
〝西部地区に長く住んでくれる人を助成する〟
 
と謡いながら、
ほんとの目的はここか、
と気づきました
 
15000円ばかりの家賃助成をしたって、
回収できていない税金を徴収できたら、
余裕でペイできるでしょうね
 
 
私は、いま現在
『金持ち父さん貧乏父さん』
 
に書いてあった
〝支払いを後に回してでも投資を優先しろ〟
 
を実践しています
 
ライフライン(家賃や、水道光熱費など)はリアルタイムで払っていますが、
税金に関しては可能な限り引き伸ばして自己投資しています
 
それは、律儀に先に支払いを優先していても、
なにも明るい未来が見えないからです
 
そして、
現在無職の人間に月何万円もの保険料の徴収があったり、
勉強不足ながらもガンガン感じる
 
〝搾取されている感〟
 
を依り代にしています
 
税金を払うためのお金は残しておくものだろう?
 
と思うでしょう?
 
私もそう思っていたし、
いまでも全否定はしていません
 
実際いま現在税金のおかげで助かっていることもあるし、
まだまだ勉強も足りません
 
そして、日本に住んでいる以上は、
なるべく現行の制度に則って税金を納めたいと考えています
 
それでも強烈に感じる搾取感
 
そして、
〝税金を納める金は残しておくものだ〟
 
という考えはそもそも誰に刷り込まれたんだろう?
 
これは勉強しなければ、
とまずはこの本を読みました
 
結局いまのところもらわないことにした、
 
ヤングファミリーなんとかって制度のおかげですね
 
 
 
 
 
個人が節税をするためには
 
『・ふるさと納税
・医療費控除による税金還付
減価償却を利用して、不動産業で赤字を出す
・社内で独立する(業務契約を結んで仕事を請け負う)』
 
そして、
普通のサラリーマン家庭が節税をするためには、
上記のような方法があります
 
大企業や富裕層の税率が高いイメージがあるでしょうが、
たとえば法人税が40%で設定されているとしたら、
いろいろな抜け道があって実際に収めるのはその半分位だそうです
 
そして、その分が中小企業や一般人から搾取されています
 
なので、
本当に節税の意識を持たなければならないのは我々一般人なのです
 
私も上記の方法を細かく説明するだけの知識はいま持ち合わせていませんが、
放っておいたら
 
〝一方的に奪われる〟
 
だけです
 
 
 
 
 
選挙以外の可能性
 
『筆者が腹が立つのは、日本という国は、危機を克服できるだけの十分な国力、
経済力、民度を持っているにもかかわらず、こういう事態になっていることである
お金は十二分にある、国民は世界有数の勤勉さと高い能力を持っている
なのになぜ、若者が当たり前に働いて、当たり前に家庭をつくることさえできないのか?
それは、はっきり言って国家経済の枠組みがまったく間違ったモノだからである
富裕層、大企業ばかりに恩恵を施し、
そうすることで経済成長すると信じてきたアホな政治家、経済評論家たちのせいなのだ
今、我々がしなければならないことは何か?
それは、できる限り税金を払わないことである
本来、民主主義というのは、選挙で国民の意志を示すものである
しかし、いいリーダーに投票しようにも、現在、
この事態を本気で切り抜けようと考えているリーダーは、ほぼ皆無といえる
だから、選挙で我々の意志を示すことはできないし、国を良くすることもできないのだ
そんな中で、我々はでき得るかぎり税金を払わないことで、
政府にプレッシャーをかけ、本気で将来のことを考える国にしていくことである
そう、つまり今の日本では、税金を払わないことこそが正義なのである』
 
 
税金を払うお金を残しておく、
という考えが刷り込みではないかという疑問と同時に、
 
〝選挙でしか変えられない〟
 
というのも思い込みではないか、
と感じていました
 
そもそも〝多数決〟ですからね
多数決で大切なことを決める、
というのはどんなことであってもろくなことじゃないです
 
税金を踏み倒せと言ってるんじゃないし、
ただ放っておいたら払わない以上にいろんなものを奪われます
 
差し押さえとかねw
 
しかし役所に相談に行き、
可能な限り支払いを引き伸ばして自己投資をする
そのほうがただ言われるがままに払い続けるよりも、
税金を払うお金以上にお金を生み出せる可能性がはるかに高まります
 
そして、
そもそも言われるがままに払わない
 
大切なのは、
大企業や富裕層だけでなく、
すべての人が節税の意識を持つことです
 
たしかに国庫にはお金がないのかもしれません
 
しかし、
日本にお金はあるのです
 
日本のシステムの根幹を、揺らしに行きましょう
 
 
 
では今回はこのへんで
 
また次回お会いしましょう!